い、と言つた。大逆人と目さるべき人間について彼がこのやうな事を書いてゐるのは、難波の態度がよくよく立派なものであつたことを思はしめる。(その文章は、「法窓回顧」とか云ふやうな題で『大阪毎日』に連載されたものの中に在つた、と記憶する。もし好事の人が図書館にでも行つて調べたなら、きつと見付かるだらうが、今の私にはさうした面倒を見る余力がない。)
難波は決して自分の行為を後悔すると言はなかつた。しかしそんな人間が一人でも皇国日本に生まれ出たと云ふことになつては、皇室の尊厳にとつて甚だ忌むべき、由々しき不祥事であつたから、当局者は、裁判を行ふ前、百方手をつくして、被告に悔悟を勧めた。それには有らゆる苦肉の策が施された。難波も最初の中は頑として之に応じなかつたが、彼の最も愛してゐた妹を差し向け、何遍でも彼の面前で泣かしめるやうになつてから、遂に閉口して、ともかく表面上では、当局者の注文通りにしようと約束することになつた。そこで裁判の当日は、先づ被告が、自分の所業は全く間違つて居りました、今では本当に後悔いたして居ります、といふ趣旨の陳述をなし、それによつて、裁判長は悔悛の情顕著なるものありと認め、情状を酌量し、死一等を減じて無期懲役の判決を下すことに、一切の手筈が決まつてゐた。さうすれば、皇室に向つて本気の沙汰で弓矢をひく者は、やはり日本中に一人も居ないのだ、と云ふことになり、更に死一等を減ずることによつて、天皇の名において行はれる裁判の上に、皇室の限りなき仁慈を現はすことも出来る、と考へられたのである。で、判事も検事も弁護士も親兄弟も、みなそのつもりで、一応の安心をしてゐた。ところが、裁判の当日、法廷に立つた難波は、その場に居た総ての人々の予期を破つて、意外にも堂々と自分の変はることなき確信を述べ、最後に声を張り上げてコミンテルン万歳を三唱した。判事も検事も弁護士も、一座の者は尽く色を失ひ、初めて自分たちがだまされてゐたことを悟り、愕然として驚いたが、もはやどうしようもなかつた。かくて難波は、彼の希望通り、年若くして刑場の露と消え去つたのである。(序に言つておくが、コミンテルンは早くから個人に対するテロを排斥してゐる。しかし大正十年代の日本における共産主義の思想はなほ極めて幼稚であつて、コミンテルンの政策などまだ十分には知られて居なかつた。思ふに難波がもつと後の時期に出て居たなら、彼は必ず別種の行動を採つたに相違ない。)
四
以上の事実を委しく知つてゐる者は、極めて少数であらう。偶然にも私は、難波が私の義弟の家と姻戚関係があつたばかりに、これらの事実を委細伝聞することが出来たのである。ところで、更にまた偶然の廻り合せで、私は難波大助の屍体が葬られた当時の有様をも、或時委しく知ることが出来た。
昭和十年の冬、小菅刑務所に服役中だつた私は、ひどい胃痛に襲はれたため、暫く病舎に収容されてゐた。この病舎には独居房は一つしかなく、当時それは瀕死の重病人で塞がれてゐたために、私のやうな治安維持法違反の受刑者は、本来ならば他と隔離して独居房に収容さるべき筈のところ、差当り十数台のベットの並べてある雑居房に入れられた。で私は、――雑談の取締が病舎では案外に寛大であつたおかげで、――側のベットに寝てゐた一人の受刑者から、難波のために墓を掘つた日の出来事を、委しく聞くことが出来た。
難波が死刑に処せられたのは、恐らく市ヶ谷監獄であつたであらう。小菅には死刑台の設備はなかつた。しかし荒川放水路を隔てた向ふの河岸には、一つの小さな寺院があつて、そこにこの刑務所附属の墓地があつた。難波の屍体はそこへ葬られたのである。当時は社会主義者の一味が途中を擁して彼の屍体を奪ひ取る計画をしてゐるといふ噂があつたので、当局者は神経を尖らし、色々な事に特別の警戒を施した。私に話をした男は、或日の昼間、仲間と一緒に件《くだん》の共同墓地に連れて行かれ、(刑務所の囲《かこひ》の外で働くかうした受刑者のことを、刑務所用語では外役といふ、)穴を掘らされたが、どうしてこんなに深い穴を掘るのかと、不思議でならなかつた。五寸角の大きな木材も何本か用意されてゐた。埋葬は夜分になつて行はれたが、その時もこの男は仕事を手伝つた。荒川の堤防の上には、提灯をつけた巡査や憲兵が所々にたむろしてゐた。棺は深く地中に埋め、その上を、かねて用意してあつた木材を縦横に組んで堅牢に固め上げ、最後に土砂をかけて仕事を終へたが、その時初めて担当看守から事情を聞かされた。春の彼岸と、秋の彼岸と、毎年十月二十日に行はれる獄中死歿者法会の折とには、いつも外役の者が共同墓地の掃除に行くが、今でも難波大助といふ墓標がありますぜ、などと言つてゐた。私が熱心に聞くものだから、相手は調子に乗つて、もつと事細か
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