、あれでは健康を害するであらうと気遣つてゐた父は、大助が心機一転したらしいのを見て、喜んでその申出を許した。で大助は公然火薬購入の免許を得、そのピストル銃を持つて山にはいり、長い間射撃の練習をした。そして漸く自信を得たので、今度は東京の情勢や地理などを研究するために、暫く東京に出てゐた。
ところが大正十二年の九月一日には、(それは「断片」が出てから二ヶ年余り過ぎた頃のこと、)関東に大震災が起つて、東京は忽ち焼野原となり、夥しい人々が惨死を遂げ、損害は五十五億円の巨額に達した。この時、無政府主義者大杉栄は甘粕といふ憲兵大尉に惨殺され、また南葛労働組合の幹部であつた平沢計七、河合義虎等数名の者も亀戸で惨殺され、更に無名の朝鮮人で何の謂はれもなく惨殺された者は無数に上ぼつたが、かうした事件は恐らく難波大助に少からざる刺戟を与へたものであらう。
彼は愈※[#二の字点、1−2−22]その宿志を決行するため、震災後東京を立つて郷里に向つた。例のステッキを取りに帰つたのである。
丁度震災後間もなくのことであつた、まだ交通運輸の状態も平生に復して居らず、時折罹災者と称して金の無心をする者が訪ねて来たり、何となく物情騒然たる雰囲気の漂つてゐた頃、一人の青年が吉田二本松の私の寓居をおとづれた。妻が取次に出ると、自分は山口県熊毛郡岩田村の難波といふ者だが、東京から帰国の途中、旅費がなくなつて困つて居るから、一時取り替へてくれぬか、とのことであつた。妻はその時、岩田村といふのは、自分の弟が養子に行つてゐる村の名であるとは思つたが、その親戚に難波といふ家のあることには気付かなかつた。青年は之を先生に見せてくれと言つて、一片の紙片を渡した。私はその時二階の応接間で友人の小島祐馬君と話をしてゐたが、妻の持つて来た紙片を見ると、姓名住所はなく、自分は共産主義者であるがとあるだけで、あとは口頭で言つたのと同じやうなことが、鉛筆で走り書きしてあつた。どうしたものでせうと小島君に相談すると、共産主義者などと書いてなければよいが、スパイみたいな人間でないとも限らぬし、まあ断つた方が無難でせう、との意見であつた。私も尤もと思つてその通りにした。青年は強要もせず、そのまま辞去した。
ずつと後になつて分かつたことだが、この青年が計らずも難波大助であつた。彼は私の所で断られたものだから、次には親戚関係のある医学部の市川教授を訪ね、そこで所要の旅費を調達した。そんな関係で、事件後市川教授は、裁判所に召喚されて一応の取調を受けたりした。それがもし私であつたならば、「断片」と二重の関係になるので、相当面倒なことになつたかも知れない。しかし難波が近い親戚を差しおいて先づ私の所を訪ねたのは、「断片」の筆者に一脈の友情を感じてゐたためであらう。それを失望させたのは、今考へると、済まなかつた事のやうにも思はれる。
一旦郷里に帰つた難波は、例のステッキを携へて再び上京し、年末の十二月二十七日、議会の開会式に行幸のあつた折の鹵簿を待ち伏せて、狙ひ撃ちをした。沿道の警戒は例によつて厳重を極めて居たけれども、彼の携へゐたピストルの外形は完全に普通のステッキだつたので、誰も疑ふ者はなかつたのである。丸は鳳輦のガラス窓に的中した。しかしガラスは特別製のものであり、丸は直線的に貫通しなかつたので、玉体には何の御恙もなかつた。
これが謂はゆる虎の門事件なるものであり、その責を負うて、約三ヶ月前の九月二日、大震災の惨禍の真只中に成立した山本権兵衛内閣は、その日のうちに総辞職をなし、時の警視総監湯浅倉平(後の宮内大臣、内大臣)は懲戒免官に処せられた。
当時私はこの事件が自分に何等かの関係があらうとは、夢にも思はなかつた。しかし難波家は、私の義弟大塚有章が養子に行つてゐる国光家と姻戚関係があつたので、予審の内容は一切極秘に附せられて居たにも拘らず、難波の陳述中に「断片」が自分のために最後の決意をなさしめたといふ自白のあることが分かつた。初めてその事を聞き知つた義兄の大塚武松は、当時文部省の維新史料編纂官を勤めてゐたが、事の重大なるを憂慮し、東京に居た私の末の弟、左京に旨を含めて京都まで知らせに寄越した。手紙に書くことをすら用心したのである。
この難波大助といふ青年は、――後年の共産党員が、一たび検挙されると、有名な巨頭から無名の末輩に至るまで、相次いで転向の誓約を敢てしたのとは反対に、――最後までその自信を曲げず、徹頭徹尾、毅然たる態度を持した、世にも珍らしい、しつかりした男であつた。彼のために裁判長をした当時の大審院長(今その名を逸す)は、後年退官後、何十年かに亘る彼の司法官生活の回顧の中で、自分の取扱つた被告は無数であるが、その数多き被告の中で、自分は難波くらゐしつかりした男を見たことがな
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