随筆「断片」
河上肇

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)件《くだん》

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(例)※[#二の字点、1−2−22]

×:伏せ字
(例)同僚の一人である××
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     一

 京都帝大の経済学部教授をしてゐた頃、大正九年九月の新学期から、私は経済学部の部長に補せられた。この地位には大概の教授がなりたがるのだが、私にとつて之は頗る迷惑であつた。と云ふのは、私はすでにその前年の一月に個人雑誌『社会問題研究』を創刊し、大概毎月一冊づつ之を刊行して居たから、いつも講義の準備に追はれてゐる私は、殆ど手一杯の仕事をして居るので、この上学校行政の俗務に携はりたくはなかつた。ただ学部の内規として、教授は就職順に一ヶ月づつ部長を勤めることになつて居たので、私一人がそれを断る訳にも行かなかつた。
 ところが都合の好いことには、一月もたたないうちに私は病気に罹かつた。感冒で寝込んだ後、微熱が去らないので、当時医学部の内科教授をして居られた島薗博士に診察して貰ふと、病気はたいしたこともないが、なんにしても痩せてゐて、よくないからだだから、転地して少し休養されるが可からう、私が診断書を書いて上げるから、とのことであつた。私はこのもつけの幸を歓び迎へ、すぐに部長の職を辞して紀州の田辺町といふ南海の浜辺にある小都会へ、転地療養に出掛けることにした。紀州人であつた島薗博士が予めそこの女学校長に依頼の手紙を出してくれられた。で私は、着くと直ぐに、船まで出迎へてくれられた其の校長さんの世話で、小さな宿屋の一室に身を落ち付けることが出来た。大きな松林が砂地の上に並んでゐる海浜に近い所であつたが、宿は安宿で、私に当てがはれた陰気な部屋には、床に粗末な軸物が懸かつてゐた。丁度真南に当つた所の松林の中には立派な旅館が見えて居たが、律義な校長さんは、長く滞留する筈になつてゐる私のために、費用の点を顧慮されたのであらう、その立派な方の旅館は避けて、貧弱な安宿の方に私の部屋を取つて置いてくれられた。一日分の宿泊料も相当格安に予約されてゐた。すこし安過ぎると思つたが、果して出してくる茶器にしても、食器にしても、夜具にしても、平生家に居て簡素な生活に甘んじて
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