た表座敷の襖《ふすま》には大字の書が張ってあって、芝居の舞台が聯想《れんそう》されたことである。
稲田家は当時士族になっていたが、明治以前は香川という家老の家来で、謂《い》わゆる復家来《またげらい》であったから、私のうちより家柄は低かった。しかし村での大地主で、家の構えなどもそのあたりでは宏荘《こうそう》なものに見えていたのである。
家風と云うか、生活態度と云うか、そう云った家庭の雰囲気は、貧しいながらも侍の家系を承け継いだ私の家と、おのずから趣を異にするものがあったが、叔母は日を経るに従って、自分の住む環境に同化して行った。そして遂にここでその一生を終ったのである。
自分の実子がある訳ではなく、食うに困る訳でもないのに、後には麦稈真田《ばっかんさなだ》などの賃仕事を引受け、僅かばかりの小銭を儲《もう》けることを楽みにしたり、すべてが次第に吝嗇臭《けちくさ》く土臭くなって来た。しかし当人がそれに安住して生涯を終られたのだから、(不幸にして彼女は母に先だち兄に先だち夫にも先だったが、)この最後の結婚は彼女にとって幸福なものであったのだと、私は考えている。
数え十五歳の時に、私は郷
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