里の岩国学校(それは高等中学校の予備門となっていたもの)を卒業して、山口高等中学校の予科(高等中学校は当時本科三年、予科二年であった)に入学した。当時私は帰省する度毎に、大概叔母の所をも訪ねていたが、それはいつの休暇のことだったか覚えない、ただ私は一度そうした折に、叔母からおはぎを馳走されたことを記憶している。
 叔母は私が甘い物の好きなのを能《よ》く知っていた。で、私が訪問すると、お前におはぎを拵えて食べさすと言って、台所の土間に下り立ち、餅米をといだり、小豆を煮たり、忙しそうに振舞いながら、私を待たせておいて、わざわざおはぎを作ってくれた。しかしその頃は、叔母がここへ移ってから数年を経過していた時だったので、叔母はもうすっかり田舎風になって居り、折角拵えてくれたおはぎも全くお百姓流のもので、生意気な学生である私の口には合わなかった。それは野良仕事をする人達の握飯みたいな大きなもので、ご飯ばかり多くて餡《あん》は少かった、砂糖も足りなかった。それに私はその頃神経質的に間食を避けていたので、正直に言えば叔母の好意は却《かえっ》て迷惑だった。しかし折角私のために作って呉れたものではあり、頻《しき》りに勧められるので、私はその大きな急拵えのおはぎを二つか三つ食べて帰った。
 日暮時うちに帰って見ると、母は私のために夕餉《ゆうげ》の御馳走を拵えて待っていて呉れたが、おはぎのおかげで私は最早やそれを食べることが出来なかった。それを見て、母は私に、お前は人情負けをするからいかん、なんでそんな物を無理に食べたかと、小言めいた物の言い方をしたが、しかしあのおはぎは、私にとっては腹一杯食べずには居られなかったものであり、今になって考えて見ると、あれは私が生涯のうち頂いたものの中で最も有り難かった物の一つである。
 人間は人情を食べる動物である。少くとも私は、人から饗応《きょうおう》を受ける場合、食物と一緒に相手方の感情を味うことを免れ得ない人間である。で、相手が自分の住んでいる環境の中で、能《あた》う限りの才覚を働かせて献げて呉れた物であるなら、たといそれが舌にはまずく感覚されようとも、私の魂はそれを有り難く頂く。それと逆に、たといどんな結構な御馳走であろうとも、犬にでも遣るような気持で出された物は、食べても実際うまくない。折角御馳走を頂きながら、私は少しも感謝の情を起さず、むしろ反感を残す。場合によっては、その反感がいつまでも消えず、時々思い出しては反芻《はんすう》するうちに、次第に苦味を増しさえすることがある。
 私のこうした傾向は人並より強いらしく思われる。京都にいる娘から羊羹《ようかん》など送って呉れると、同じ店の同じ種類の製品ても、友人に貰った物より娘の呉れた物の方を、私は遥にうまく食べる。格段に味が違うので、私は客観的に品質が違うのだと主張することがあるが、妻などは笑って相手にしないから、これは私の味覚が感情によって左右されるのかも知れない。(この一文を書いて四ヶ月ばかり経ってから、私はふと高青邱の「呉中の新旧、遠く新酒を寄す」と題する詩に、「双壷遠く寄せて碧香新たに、酒内情多くして人を酔はしめ易し。上国|豈《あ》に千日の醸なからむや、独り憐む此は是れ故郷の春。」というのがあるのに邂逅《かいこう》して、古人|已《すで》に早く我が情を賦せりの感を深くした。)
 とにかく私はそういう人間だから、もう半世紀近くも昔になる私の少年時代に食べたおはぎの味を、未だに忘れることが出来ずに居り、その記憶は、叔母の姿をいつまでも懐しいものに思わせてくれ、今も私を駆って、この思い出を書かしめて居るのである。

 感謝する姿はしおらしくて上品だが、不平がましい面を曝《さら》すのは醜くて卑しい。しかし此の思い出も亦自画像のためのスケッチの一つだと考えている私は、序《ついで》に醜い側をも書き添えて置かねばなるまい。――書こうと思うことは、自分の事ばかりでなく、他人の事にも関係するので、心の中で思っているのはまだしも、物にまで書き残すのはどんなものかと、私はいくたびもためらったが、やはり書いて見ようという気になって、ここに筆を続ける。
 大正十二年九月、関東大震災の後、津田青楓氏は、三人のお子さんを東京に残し、一人の若い女を連れて、京都に移られた。当時私は京都帝大の教授をして居たが、或日思い掛けなく同氏の来訪を受け、その時から私と同氏との交際が始った。(昭和八年、私が検挙された頃、青楓氏は何回か私との関係を雑誌などに書かれた。昭和十二年、私が出獄してからも、更に二回ばかり物を書かれた。で、初対面の時のことも、その何れかで委《くわ》しく書かれている筈である。)その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓《かぐう》に集って翰墨《かんぼく》の遊びをするようになった。その
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