恐らくそれが生れて初めてであったろう、それがひどく私の好奇心をそそったために今でもそこの黒い土の色、そこから出て来た赤い藷の色の印象が、まだ眼に見えるように残っている。私はそんなことで昼間は上機嫌で過したが、やはり日が暮れて来ると、無暗《むやみ》にうちへ帰りたくなった。元来|我儘《わがまま》な子だったので、そう云い出したら無事に寝る見込もなく、とうとう夜になって、叔母は私を私のうちまで送り届けた。
こうした事のあったのは、私のいくつの頃であったろう。泊るなど云ったところから見ると、多分小学校へまだ入学して居なかった頃の事だろうと思われる。ところで私が小学校へ入学したのは、調べて見ると、明治十七年三月、私が満四年五ヶ月になった時だが、これより先き、明治十四年十一月一日に、叔母は玉井家から離縁になって戻り、間もなく十一月二十一日にはまた元の藤村家へ再縁している。それは私が満二年一ヶ月に達した時のことである。して見ると、私がここに書いたような記憶は、私が満二年一ヶ月から四年五ヶ月になるまでの期間に属するものと推定されるのである。私は、近頃まで一緒に住んでいて、今は上海に行っている、自分の孫たちの齢《とし》を算《かぞ》えて見て、絢子の方はもう四年五ヶ月以上になって居るのだから、私が死んだ後からでも何か思い出してくれる事があるかも知れぬ、などと考え及んだ。
さて、再び叔母のことに立ち返るが、叔母が一旦藤村家を出て後にまた再縁するまでの期間は、勘定して見ると、四年一ヶ月になる。この間に、藤村の方では、誰かを娶《めと》って復《ま》た離縁したのか、それとも死別したのか、私の記憶している頃には、叔母の産んだ子でない男の子が一人いて、私と同年であった。最初叔母が藤村家から離縁になったのは明治十年であり、私が生れたのは明治十二年であるから、話は丁度符合するのである。
藤村家へ再縁してから八年目の明治二十二年一月二十五日には、叔母はまた離縁になって戻った。こんな風にどこにも落ちつかなかなったのは、一つは自分の産んだ子を有《も》たなかったせいであろう。齢を計算して見ると、この時叔母はもう四十になっていた筈である。
藤村家から帰って来て翌年の明治二十三年には、叔母はまた稲田家へ嫁いだ。それは私の満十年九ヶ月になった時のことである。
稲田家は錦川の下流、海に近い田畑の中にあった。今では山陽線の下り汽車に乗ると、麻里布駅の次が岩国駅になっているが、稲田家はその麻里布駅に近く、私の家は岩国駅に近い。しかし当時はまだそんな鉄道など見ることも出来なかった。で、叔母は川舟に乗って嫁入をした。
叔母がその時どんな服装をしていたか、全く覚えていないが、ともかく彼女は私のうちを出て、土手を越し、竹藪《たけやぶ》の中の雑草の生茂った細道を通り抜け、川原畑の畦道《あぜみち》を歩いて、一面の石ころに覆われた川原に出で、そこから舟に乗ったものに相違ない。それは俥などの通り得る道ではなかった。祖母、父、母、私、弟、これがその一行であったであろう。末の弟は前年に生れてまだ誕生日を過ぎぬ頃のことであったから、多分誰かに預けられて留守居したであろう。
赤い毛氈《もうせん》を敷いた一艘《いっそう》の屋形舟は、一行を載せ、夏の川風に吹かれながら、鮎や鮠《はえ》などの泳いでいる清い流れの錦川を棹《さお》さして下った。
舟を下りてから稲田家までは、多分俥に乗ったであろう、私は今覚えていない。ただ覚えているのは、稲田家の門が寺の門のように大きく、扉には大きな鋲飾《びょうかざ》りなどが打ってあり、通された表座敷の襖《ふすま》には大字の書が張ってあって、芝居の舞台が聯想《れんそう》されたことである。
稲田家は当時士族になっていたが、明治以前は香川という家老の家来で、謂《い》わゆる復家来《またげらい》であったから、私のうちより家柄は低かった。しかし村での大地主で、家の構えなどもそのあたりでは宏荘《こうそう》なものに見えていたのである。
家風と云うか、生活態度と云うか、そう云った家庭の雰囲気は、貧しいながらも侍の家系を承け継いだ私の家と、おのずから趣を異にするものがあったが、叔母は日を経るに従って、自分の住む環境に同化して行った。そして遂にここでその一生を終ったのである。
自分の実子がある訳ではなく、食うに困る訳でもないのに、後には麦稈真田《ばっかんさなだ》などの賃仕事を引受け、僅かばかりの小銭を儲《もう》けることを楽みにしたり、すべてが次第に吝嗇臭《けちくさ》く土臭くなって来た。しかし当人がそれに安住して生涯を終られたのだから、(不幸にして彼女は母に先だち兄に先だち夫にも先だったが、)この最後の結婚は彼女にとって幸福なものであったのだと、私は考えている。
数え十五歳の時に、私は郷
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