る。――こういうのが恐らく落目になった老人の僻《ひが》み根性というものであろう、しかし私はそれをどうすることも出来ない。
 こうした類の経験が度重なるにつれ、それは次第に私をこの画家から遠ざけた。
 翰墨会の夢は再び返らず、獄中では、これからの晩年を絵でも描いて暮らそうかとさえ思ったことのある私も、今では、絵筆を手にする機会など殆ど無くなってしまった。
 以上の思い出を書いて郷里の舎弟に送り、母に読んで上げて貰ったところ、母の話によれば、叔母が稲田家へ嫁入りしたのは、明治二十三年ではなく、その前年の二十二年だと云うことである。私は父の手記に拠《よ》ったのだが、母の記憶によれば、当時母は末の弟を妊娠中だったとのことで、その記憶に間違いのあろう筈なく、これは父の誤記と思われる。当時末の弟は人に預けられて留守居したのだろう、などと私の書いたのも間違いで、弟はまだ生まれて居なかったのである。なお母の話によれば、舟を下りてから吾々は中宿《なかやど》の稲本家というに立ち寄り、叔母はそこで衣裳を改めたのだ、と云うことである。私は、私たちの家を出てから河原畑を通り抜けて舟に乗るまで、叔母はどんな服装をして居たのだろうか、紋服を着であの竹藪《たけやぶ》の間を歩いたものだろうかなどと、当時の様子を想像しかねて居たが、母の話のおかげでこうした疑問がすっかり解けた。結婚披露の宴が済んでから、私たちは人力車に乗って帰ったが、車夫がふるまい酒に酔っぱらって、喧嘩《けんか》など始めたため、吾々はみな途中から俥を下りて、歩いて帰った。これも母の思い出話である。
 序《ついで》に書き加えておくが、私が以上の本文の清書を了《お》えたのは、昭和十六年十二月十日のことであるが、私はそれから十日目の十二月二十日、満十二年ぶりに、東海道線の汽車に乗って、居を東京から京都に移した。その際、東京を引上げるについては、私は名残りを措しんでくれる一二の友人から思い掛けなき厚意を受け、忘れがたき思い出の種子を残すことが出来たが、ただ一つ心に寂しく思ったことは、世間からは無二の親交を続けて居るように思われている青楓氏と、まことにあっけない簡単な別れ方をしたことである。私は早くから同氏に転居の意思あることを話しておいた。そして、或日私は、北京土産に貰った玉版箋を携えて、暇乞《いとまご》いかたがた同氏を訪問した。これまで私は
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