十一歳になっていたが、この年の六月十五日に初めて、同族河上又三郎の次女タヅと結婚した。それが私の母で、文久二年八月誕生の彼女は、当時十七歳、正確に云えば満十五歳十ヶ月であった。
私が生れたのは、その翌年の十月二十日である。従って以上の出来事は、みな私の見ることの出来なかった事実に属する。
しかし叔母に関する私の最初の記憶は、後に述べるような事情から、彼女が藤村家に居た時代にまで遡《さかのぼ》る。私は幼い頃、祖母に連れられて、幾度か叔母の許《もと》を訪ねた。
私の家は錦川に沿うて造られた土手に近かった。その土手の上を暫く城山の方に向って歩いてゆくと、渡場があった。舟に乗せて貰って向うへ渡ると、そこが川西と称される地帯で、叔母のうちは、その川西の山手にあった。川を渡ってから暫く街道を歩き、それから路地を右手に曲ると、そこは城山の峯尾の麓《ふもと》になるので、次第に急な爪先き上がりの坂道になる。こんもりと森の繁った薄暗いジメジメした坂を登って行くと、路の右側は深く掘れた細い横谷になっていて、谷底にはきれいな水が流れていた。叔母の家は、路の左側にあった。私はそこの二階で本を見せて貰ったことを覚えている。今では幼児のための絵本が沢山に出来ていて、普通の家庭に育った子供なら、早くから、色々の彩色を施した美しい絵本になじんでいるけれども、半世紀以上の昔である私の幼年時代には、そんなものは想像することも出来なかった。それに私の家は、私の父が家督を継いだ時、譲られたものは、家屋敷の外は質札ばかりであった、と云われるほどあって、書籍などいうものは殆ど一冊も無かった。で、偶々《たまたま》叔母のうちの二階で手にすることの出来た本は、私に非常な興味を感じさせた。それが何の本であったかは、今では想像して見ることすら出来ない。ただ私は、それが和綴《わとじ》の本で、中には色々な植物の花の絵などがあったのを、覚えているだけである。その時私はこれに非常な興味を覚えたものと見え、余所《よそ》で泊ったことなどまだ一度もないのに、今日はここへ泊ると云い出した。どうかなと案じながらも、祖母が私を残して帰った時、晩には藷《いも》を煮て食べさせて上げると云って、叔母は屋敷つづきの畑へ私を連れ出し、薩摩藷《さつまいも》を掘って見せた。蔓《つる》につれて黒い土の中から赤い藷がボコリボコリと出て来るのを見たのは、
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