翁の詩だが、私は之を次のやうに訳して見た。
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七年《ななとせ》ぶりに来てみれば
まくらにかよふ楓橋の
むかしながらの寺の鐘
鐘のひびきの悽《かな》しくも
そそぐ泪はをしめかし
身は蜀に入る客にして
巴山はとほし千里の北
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試にこれを人に見せたところ、その人の言ふには、なるほど訳詩は相当の出来栄えだが、しかし原詩を日本読みにした場合の特殊の味は出て居ない、とのことであつた。尤もな話だ。そして之はもちろん私の不才に因るのでもあらうが、しかし日本読みの漢文調または漢詩調より受ける吾々の感覚は、元来独特なもので、これに代はるべき表現は他にないのである。
佐藤春夫の車塵集は五十首に近い漢詩の翻訳から成つてゐるが、その原詩が何れも女子の作品であり、謂はゆる風雲の気少く児女の情多きものであるのは、必ずしも偶然ではない。かうした種類のものは、漢字にたよらない日本語で表現することが、比較的に容易だからである。これと同じ理由で、維新当時の志士がその風雲の気を好んで漢詩に托したのも、やはり偶然ではない。彼等は漢字と漢詩調を借りなければ表現することの出来ない鬱勃たる気概を胸中に抱いて居たのである。近くは乃木大将の「征馬|前《すす》まず人語らず、金州城外斜陽に立つ」の詩にしても、その時の感情はかうした形式以外に適当な表現はなく、支那人が見て感心しようが、感心すまいが、そんなことは最初から少しも問題にならぬのである。
日本人の描く油絵や水絵が、今日では、すでに洋画ではなく、日本画となつてゐると同じやうに、漢詩は既に久しい以前から日本の詩となつてゐる。これは漢字がすでに日本字になつてゐることと関聯するのである。
今日吾々の用ひる漢字の発音は、元と支那から渡来したものに相違はないが、しかし現代の日本人は現代の支那人と全く違つた発音の系統を維持して居り、かかる発音をなすものとしては、日本の漢字は最早や日本だけの国字となつてゐる。そしてかかる日本流の漢字は、長い長い年数の間にすつかり日本人の言語の中に融け込み、深い深い根をおろしてしまつて、今日吾々の言語は、漢字の助けなしには理解され得ないほどのものになつて居るのである。例へば戦車だの飛行機だのと云つても、漢字を当てはめて見なければ意味が通ぜず、英語を嫌つて野球用語のピッチャーを投手、キャッチャ
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