是れだけの事を云ふ積りであつたのだけれども、迚《とて》も云へないと気がついて黙つてしまつたのだ。妻は寒い中に端坐して身もふるはさずに子供の声に聞き入つてるらしかつた。
「もう寝ろ」
彼は暫くたつてからこんな乱暴な云ひやうで妻を強ひた。
「出してやらなくても宜《よろ》しいでせうか」
彼の言葉には答へもせずに、妻は平べつたい調子で後ろを向いたまゝかう云つてゐる。その落着き払つたやうな、ちつとも情味の籠《こも》らないやうな、冷静な妻の態度が却《かへ》つて怒りを募らして、彼は妻の眼の前で子供をつるし切りにして見せてやりたい程|荒《すさ》んだ気分になつた。憤怒の小魔が、体の内からともなく外からともなく、彼の眼をはだけ、歯を噛み合はさせ、喉をしめつけ、握つた手に油汗をにじみ出さした。彼は焔に包まれて、宙に浮いてゐるやうな、目まぐるしい心の軽さを覚えて、総ての羈絆《きはん》を絶ち切つて、何処までも羽をのす事が出来るやうにも思つた。彼はその虚無的な気分に浸りたいが為めに、狂言をかいて憤怒の酒に酔ひしれようと勉《つと》めるらしくもあつた。
兎に角彼は心ゆく許《ばか》り激情の弄《もてあそ》ぶまゝに自
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