らっしゃいます。そうです、そこには家《うち》にある通りの本棚と箪笥とが来ていたのです。僕はいくらそんな所を探したって僕はいるものかと思いながら、暫《しばら》くは見つけられないのをいい事にして黙って見ていました。
「どうもあれがこの本の中にいないはずはないのだがな」
 とやがておとうさんがおかあさんに仰有《おっしゃ》います。
「いいえそんな所にはいません。またこの箪笥の引出しに隠れたなりで、いつの間にか寝込んだに違いありません。月の光が暗いのでちっとも見つかりはしない」
 とおかあさんはいらいらするように泣きながらおとうさんに返事をしていられます。
 やはりそれは本当のおとうさんとおかあさんでした。それに違いありませんでした。あんなに僕のことを思ってくれるおとうさんやおかあさんが外《ほか》にあるはずはないのですもの。僕は急に勇気が出て来て顔中《かおじゅう》がにこにこ笑いになりかけて来ました。「わっ」といって二人を驚《おどろ》かして上げようと思って、いきなり大きな声を出して二人の方に走り寄りました。ところがどうしたことでしょう。僕の体は学校の鉄の扉を何の苦もなく通りぬけたように、おとうさんとおかあさんとを空気のように通りぬけてしまいました。僕は驚いて振り返って見ました。おとうさんとおかあさんとは、そんなことがあったのは少しも知《し》らないように相変らず本棚と箪笥とをいじくっていらっしゃいました。僕はもう一度二人の方に進み寄って、二人に手をかけて見ました。そうしたら、二人ばかりではなく、本棚までも箪笥まで空気と同じように触ることが出来ません。それを知ってか知らないでか、二人は前の通り一生懸命に、泣きながら、しきりと僕の名を呼んで僕を探していらっしゃいます。僕も声を立てました。だんだん大きく声を立てました。
「おとうさん、おかあさん、僕ここにいるんですよ。おとうさん、おかあさん」
 けれども駄目でした。おとうさんもおかあさんも、僕のそこにいることは少しも気付かないで、夢中になって僕のいもしない所を探していらっしゃるんです。僕は情けなくなって本当においおい声を出して泣いてやろうかと思う位でした。
 そうしたら、僕の心にえらい智慧《ちえ》が湧《わ》いて来ました。あの狸帽子が天の所でいたずらをしているので、おとうさんやおかあさんは僕のいるのがお分かりにならないんだ。そうだ、あの帽子に化けている狸おやじを征伐するより外《ほか》はない。そう思いました。で、僕は空中にぶら下がっている帽子を眼がけて飛びついて、それをいじめて白状させてやろうと思いました。僕は高飛びの身構えをしました。
「レデー・オン・ゼ・マーク……ゲッセット……ゴー」
 力一杯|跳《は》ね上がったと思うと、僕の体はどこまでもどこまでも上の方へと登って行きます。面白いように登って行きます。とうとう帽子の所に来ました。僕は力みかえって帽子をうんと掴《つか》みました。帽子が「痛い」といいました。その拍子に帽子が天の釘《くぎ》から外《はず》れでもしたのか僕は帽子を掴んだまま、まっさかさまに下の方へと落ちはじめました。どこまでもどこまでも。もう草原《くさはら》に足がつきそうだと思うのに、そんなこともなく、際限もなく落ちて行きました。だんだんそこいらが明るくなり、神鳴《かみな》りが鳴り、しまいには眼も明けていられないほど、まぶしい火の海の中にはいりこんで行こうとするのです。そこまで落ちたら焼け死ぬ外はありません。帽子が大きな声を立てて、
「助けてくれえ」
 と呶鳴《どな》りました。僕は恐ろしくて唯《ただ》うなりました。
 僕は誰《た》れかに身をゆすぶられました。びっくらして眼を開《あ》いたら夢でした。
 雨戸を半分開けかけたおかあさんが、僕のそばに来ていらっしゃいました。
「あなたどうかおしかえ、大変にうなされて……お寝ぼけさんね、もう学校に行く時間が来ますよ」
 と仰有いました。そんなことはどうでもいい。僕はいきなり枕もとを見ました。そうしたら僕はやはり後生《ごしょう》大事に庇《ひさし》のぴかぴか光る二円八十銭の帽子を右手で握っていました。
 僕は随分うれしくなって、それからにこにことおかあさんの顔を見て笑いました。



底本:「一房の葡萄 他四篇」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年12月16日改版第1刷発行
底本の親本:「一房の葡萄」叢文閣
   1922(大正11)年6月
入力:鈴木厚司
校正:石川友子
2000年4月29日公開
2005年11月21日修正
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