僕の帽子のお話
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仰有《おっしゃ》いました。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二円八十|銭《せん》
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「僕の帽子はおとうさんが東京から買って来て下さったのです。ねだんは二円八十|銭《せん》で、かっこうもいいし、らしゃも上等です。おとうさんが大切にしなければいけないと仰有《おっしゃ》いました。僕もその帽子が好きだから大切にしています。夜は寝る時にも手に持って寝ます」
 綴《つづ》り方の時にこういう作文を出したら、先生が皆んなにそれを読んで聞かせて、「寝る時にも手に持って寝ます。寝る時にも手に持って寝ます」と二度そのところを繰返《くりかえ》してわはははとお笑いになりました。皆んなも、先生が大きな口を開《あ》いてお笑いになるのを見ると、一緒になって笑いました。僕もおかしくなって笑いました。そうしたら皆んながなおのこと笑いました。
 その大切な帽子がなくなってしまったのですから僕は本当に困りました。いつもの通り「御機嫌《ごきげん》よう」をして、本の包みを枕《まくら》もとにおいて、帽子のぴかぴか光る庇《ひさし》をつまんで寝たことだけはちゃんと覚えているのですが、それがどこへか見えなくなったのです。
 眼《め》をさましたら本の包《つつみ》はちゃんと枕もとにありましたけれども、帽子はありませんでした。僕は驚いて、半分寝床から起き上って、あっちこっちを見廻《みま》わしました。おとうさんもおかあさんも、何《なん》にも知らないように、僕のそばでよく寝ていらっしゃいます。僕はおかあさんを起《おこ》そうかとちょっと思いましたが、おかあさんが「お前さんお寝ぼけね、ここにちゃあんとあるじゃありませんか」といいながら、わけなく見付けだしでもなさると、少し耻《はずか》しいと思って、起すのをやめて、かいまきの袖《そで》をまくり上げたり、枕の近所を探して見たりしたけれども、やっぱりありません。よく探して見たら直《す》ぐ出て来るだろうと初めの中《うち》は思って、それほど心配はしなかったけれども、いくらそこいらを探しても、どうしても出て来ようとはしないので、だんだん心配になって来て、しまいには喉《のど》が干《ひ》からびるほど心配になってしまいました。寝床の裾《すそ》の方もまくって見ました。もしや手に持ったままで帽子のありかを探しているのではないかと思って、両手を眼の前につき出して、手の平と手の甲と、指の間とをよく調べても見ました。ありません。僕は胸がどきどきして来ました。
 昨日《きのう》買っていただいた読本《とくほん》の字引きが一番大切で、その次ぎに大切なのは帽子なんだから、僕は悲しくなり出しました。涙が眼に一杯たまって来ました。僕は「泣いたって駄目だよ」と涙を叱《しか》りつけながら、そっと寝床を抜け出して本棚の所に行って上から下までよく見ましたけれども、帽子らしいものは見えません。僕は本当に困ってしまいました。
「帽子を持って寝たのは一昨日《おととい》の晩で、昨夜はひょっとするとそうするのを忘れたのかも知れない」とふとその時思いました。そう思うと、持って寝たようでもあり、持つのを忘れて寝たようでもあります。「きっと忘れたんだ。そんなら中《なか》の口《くち》におき忘れてあるんだ。そうだ」僕は飛び上がるほど嬉《うれ》しくなりました。中の口の帽子かけに庇《ひさし》のぴかぴか光った帽子が、知らん顔をしてぶら下がっているんだ。なんのこったと思うと、僕はひとりでに面白くなって、襖《ふすま》をがらっと勢《いきおい》よく開けましたが、その音におとうさんやおかあさんが眼をおさましになると大変だと思って、後ろをふり返って見ました。物音にすぐ眼のさめるおかあさんも、その時にはよく寝ていらっしゃいました。僕はそうっと襖をしめて、中の口の方に行《ゆ》きました。いつでもそこの電燈《でんとう》は消してあるはずなのに、その晩ばかりは昼のように明るくなっていました。なんでもよく見えました。中の口の帽子かけには、おとうさんの帽子の隣りに、僕の帽子が威張りくさってかかっているに違いないとは思いましたが、なんだかやはり心配で、僕はそこに行くまで、なるべくそっちの方を向きませんでした。そしてしっかりその前に来てから、「ばあ」をするように、急に上を向いて見ました。おとうさんの茶色の帽子だけが知《し》らん顔をしてかかっていました。あるに違いないと思っていた僕の帽子はやはりそこにもありませんでした。僕はせかせかした気持ちになって、あっちこちを見廻《みま》わしました。
 そうしたら中の口の格子戸《こうしど》に黒いものが挟まっているのを見つけ出しました。電燈の光でよく見ると、驚いたことにはそれが僕の帽子らしいのです。僕は夢中になって、そこにあった草履《ぞうり》をひっかけて飛び出しました。そして格子戸を開けて、ひしゃげた帽子を拾おうとしたら、不思議にも格子戸がひとりでに音もなく開《ひら》いて、帽子がひょいと往来《おうらい》の方へ転《ころ》がり出《だし》ました。格子戸のむこうには雨戸が締まっているはずなのに、今夜に限ってそれも開いていました。けれども僕はそんなことを考えてはいられませんでした。帽子がどこかに見えなくならない中《うち》にと思って、慌《あわ》てて僕も格子戸のあきまから駈《か》け出しました。見ると帽子は投げられた円盤《えんばん》のように二、三|間《げん》先きをくるくるとまわって行《ゆ》きます。風も吹いていないのに不思議なことでした。僕は何しろ一生懸命に駈け出して帽子に追いつきました。まあよかったと安心しながら、それを拾おうとすると、帽子は上手《じょうず》に僕の手からぬけ出して、ころころと二、三間先に転がって行くではありませんか。僕は大急ぎで立ち上がってまたあとを追《お》いかけました。そんな風《ふう》にして、帽子は僕につかまりそうになると、二|間《けん》転がり、三間転がりして、どこまでも僕から逃げのびました。
 四《よ》つ角《かど》の学校の、道具を売っているおばさんの所まで来ると帽子のやつ、そこに立ち止まって、独楽《こま》のように三、四|遍《へん》横まわりをしたかと思うと、調子をつけるつもりかちょっと飛び上がって、地面に落ちるや否や学校の方を向いて驚くほど早く走りはじめました。見る見る歯医者の家《うち》の前を通り過ぎて、始終僕たちをからかう小僧のいる酒屋の天水桶《てんすいおけ》に飛び乗って、そこでまたきりきり舞いをして桶のむこうに落ちたと思うと、今度は斜《はす》むこうの三|軒長屋《げんながや》の格子窓の中ほどの所を、風に吹きつけられたようにかすめて通って、それからまた往来の上を人通りがないのでいい気になって走ります。僕も帽子の走るとおりを、右に行ったり左に行ったりしながら追いかけました。夜のことだからそこいらは気味の悪いほど暗いのだけれども、帽子だけははっきりとしていて、徽章《きしょう》までちゃんと見えていました。それだのに帽子はどうしてもつかまりません。始めの中《うち》は面白くも思いましたが、その中に口惜《くや》しくなり、腹が立ち、しまいには情けなくなって、泣き出しそうになりました。それでも僕は我慢していました。そして、
「おおい、待ってくれえ」
 と声を出してしまいました。人間の言葉が帽子にわかるはずはないとおもいながらも、声を出さずにはいられなくなってしまったのです。そうしたら、どうでしょう、帽子が――その時はもう学校の正門の所まで来ていましたが――急に立ちどまって、こっちを振り向いて、
「やあい、追いつかれるものなら、追いついて見ろ」
 といいました。確かに帽子がそういったのです。それを聞くと、僕は「何糞《なにくそ》」と敗《ま》けない気が出て、いきなりその帽子に飛びつこうとしましたら、帽子も僕も一緒になって学校の正門の鉄の扉を何《なん》の苦もなくつき抜けていました。
 あっと思うと僕は梅組の教室の中にいました。僕の組は松組なのに、どうして梅組にはいりこんだか分りません。飯本《いいもと》先生が一|銭銅貨《せんどうか》を一枚皆に見せていらっしゃいました。
「これを何枚呑むとお腹《なか》の痛みがなおりますか」
 とお聞きになりました。
「一枚呑むとなおります」
 とすぐ答えたのはあばれ坊主の栗原《くりはら》です。先生が頭を振られました。
「二枚です」と今度はおとなしい伊藤《いとう》が手を挙げながらいいました。
「よろしい、その通り」
 僕は伊藤はやはりよく出来るのだなと感心しました。
 おや、僕の帽子はどうしたろうと、今まで先生の手にある銅貨にばかり気を取られていた僕は、不意に気がつくと、大急ぎでそこらを見廻わしました。どこで見失ったか、そこいらに帽子はいませんでした。
 僕は慌《あわ》てて教室を飛び出しました。広い野原に来ていました。どっちを見ても短い草ばかり生えた広い野です。真暗《まっくら》に曇った空に僕の帽子が黒い月のように高くぶら下がっています。とても手も何も届きはしません。飛行機に乗って追いかけてもそこまでは行《ゆ》けそうにありません。僕は声も出なくなって恨《うら》めしくそれを見つめながら地《じ》だんだを踏むばかりでした。けれどもいくら地だんだを踏んで睨《にら》みつけても、帽子の方は平気な顔をして、そっぽを向いているばかりです。こっちから何かいいかけても返事もしてやらないぞというような意地悪《いじわる》な顔をしています。おとうさんに、帽子が逃げ出して天に登って真黒《まっくろ》なお月様になりましたといったところが、とても信じて下さりそうはありませんし、明日《あす》からは、帽子なしで学校にも通《かよ》わなければならないのです。こんな馬鹿げたことがあるものでしょうか。あれほど大事に可愛がってやっていたのに、帽子はどうして僕をこんなに困らせなければいられないのでしょう。僕はなおなお口惜しくなりました。そうしたら、また涙という厄介ものが両方の眼からぽたぽたと流れ出して来ました。
 野原はだんだん暗くなって行きます。どちらを見ても人っ子一人いませんし、人の家《うち》らしい灯《ひ》の光も見えません。どういう風《ふう》にして家に帰れるのか、それさえ分らなくなってしまいました。今までそれは考えてはいないことでした。ひょっとしたら狸《たぬき》が帽子に化けて僕をいじめるのではないかしら。狸が化けるなんて、大うそだと思っていたのですが、その時ばかりはどうもそうらしい気がしてしかたがなくなりはじめました。帽子を売っていた東京の店が狸の巣で、おとうさんがばかされていたんだ。狸が僕を山の中に連れこんで行くために第一におとうさんをばかしたんだ。そういえばあの帽子はあんまり僕の気にいるように出来ていました。僕はだんだん気味が悪くなってそっと帽子を見上げて見ました。そうしたら真黒《まっくろ》なお月様のような帽子が小さく丸まった狸のようにも見えました。そうかと思うとやはり僕の大事な帽子でした。
 その時遠くの方で僕の名前を呼ぶ声が聞こえはじめました。泣くような声もしました。いよいよ狸の親方が来たのかなと思うと、僕は恐ろしさに脊骨がぎゅっと縮み上がりました。
 ふと僕の眼の前に僕のおとうさんとおかあさんとが寝衣《ねまき》のままで、眼を泣きはらしながら、大騒ぎをして僕の名を呼びながら探しものをしていらっしゃいます。それを見ると僕は悲しさと嬉《うれ》しさとが一緒になって、いきなり飛びつこうとしましたが、やはりおとうさんもおかあさんも狸の化けたのではないかと、ふと気が付くと、何んだか薄気味が悪くなって飛びつくのをやめました。そしてよく二人を見ていました。
 おとうさんもおかあさんも僕がついそばにいるのに少しも気がつかないらしく、おかあさんは僕の名を呼びつづけながら、箪笥《たんす》の引出しを一生懸命に尋《たず》ねていらっしゃるし、おとうさんは涙で曇る眼鏡《めがね》を拭《ふ》きながら、本棚の本を片端《かたっぱし》から取り出して見てい
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