になる気持ちが違うからしかたがないと答えるほかはない。
それからロシアにおけるプロレタリアの芸術に関する考察が挙げてあるが、これは格別僕の「宣言一つ」と直接関係のあるものではない。これは氏のロシア文学に対する博識を裏書きするだけのものだ。僕が「大観」の一月号に書いた表現主義の芸術に対する感想の方が暗示の点からいうと、あるいは少し立ち勝《まさ》っていはしないかと思っている。
とにかく片山氏の論文も親切なものだと思ってその時は読んだが、それについて何か書いてみようとすると、僕のいわんとするところは案外少ない。もっとも表題が「階級芸術の問題」というので、あながち僕を教えようとする目的からのみ書かれたものでないからであろう。これを要するに氏の僕に言わんとするところは、第四階級者でなくとも、その階級に同情と理解さえあれば、なんらかの意味において貢献ができるであろうに、それを拒む態度を示すのは、臆病《おくびょう》な、安全を庶幾《しょき》する心がけを暴露するものだということに帰着するようだ。僕は臆病でもある。安全も庶幾している。しかし僕自身としては持って生まれた奇妙な潔癖がそれをさせているのだと思う。僕は第四階級が階級一掃の仕事のために立ちつつあるのに深い同情を持たないではいられない。そのためには僕はなるべくその運動が純粋に行なわれんことを希望する。その希望が僕を柄《がら》にもないところに出しゃばらせるのを拒むのだ。ロシアでインテリゲンチャが偉い働きをしたから、日本でもインテリゲンチャが働くのに何が悪いなどの議論も聞くが、そんなことをいう人があったら現在の日本ではたいていはみずから恥ずべきだと僕は思うのだ。ロシアの人たちはすべての所有を賭《と》し、生命を賭して働いたのだそうだ。日本にもそういう人がいたら、その人のみがインテリゲンチャの貢献のいかによきかを説くがいい。それほどの覚悟なしに口の先だけで物をいっているくらいなら、おとなしく私はブルジョアの気分が抜けないから、ブルジョアに対して自分の仕事をしますといっているのが望ましいことに私には見えるのだ。近ごろ少しあることに感じさせられたからついあんな宣言をする気になったのだ。
三上氏が、僕のいったようなことをいう以上は、まず自分の生活をきれいに始末してからいうべきだと説いたのはごもっともで、僕は三上氏の問いに対してへこたれざるをえない。同時に三上氏もその詰問を他人に対して与えた以上は自分の立場についても立つべき所を求めなければならぬともおもう。すでに求め終わっているのなら幸甚である。
A兄
くたびれたろうな。もう僕も饒舌《じょうぜつ》はいいかげんにする。兄は僕が創作ができないのをどうしたというが、あの「宣言一つ」一つを吐き出すまでにもいいかげん胸がつかえていたのでできなかったのだ。僕の生活にも春が来たらあるいは何かできるかもしれない。反対にできないかもしれない。春が来たら花ぐらいは咲きそうなものだとは思っているが。
底本:「惜しみなく愛は奪う」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年1月30日改版初版
1979(昭和54)年4月30日発行改版14版
初出:『我等』大正11年3月
入力:鈴木厚司
1999年2月13日公開
2005年11月20日修正
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