片信
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蟄伏期《ちっぷくき》も

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近来|出遇《であ》わなかった
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 A兄
 近来|出遇《であ》わなかったひどい寒さもやわらぎはじめたので、兄の蟄伏期《ちっぷくき》も長いことなく終わるだろう。しかし今年の冬はたんと健康を痛めないで結構だった。兄のような健康には、春の来るのがどのくらい祝福であるかをお察しする。
 僕の生活の長い蟄眠期《ちつみんき》もようやく終わりを告げようとしているかに見える。十年も昔僕らがまだ札幌にいたころ、打ち明け話に兄にいっておいたことを、このごろになってやっと実行しようというのだ。自分ながら持って生まれた怯懦《きょうだ》と牛のような鈍重さとにあきれずにはいられない。けれども考えてみると、僕がここまで辿《たど》り着くのには、やはりこれだけの長い年月を費やす必要があったのだ。今から考えると、ようこそ中途半端で柄にもない飛び上がり方をしないで済んだと思う。あのころには僕にはどこかに無理があった。あのころといわずつい昨今まで僕には自分で自分を鞭《むちう》つような不自然さがあった。しかし今はもうそんなものだけはなくなった。僕の心は水が低いところに流れて行くような自然さをもって僕のしようとするところを肯《がえ》んじている。全く僕は蟄虫が春光に遇っておもむろに眼を開くような悦《よろこ》ばしい気持ちでいることができる。僕は今不眠症にも犯されていず、特別に神経質にもなっていない。これだけは自分に満足ができる。
 ただし蟄眠期を終わった僕がどれだけ新しい生活に対してゆくことができるか、あるいはある予期をもって進められる生活が、その予期を思ったとおりに成就してくれるか、それらの点に行くとさらに見当がつかない。これらについても十分の研究なり覚悟なりをしておくのが、事の順序であり、必要であるかもしれないけれども、僕は実にそういう段になると合理的になりえない男だ。未来は未来の手の中にあるとしておこう。来たるべきものをして来たるべきものを処置させよう。
 結局僕の今度の生活の展開なり退縮なりは、全く僕一個に係《かかわ》った問題で、これが周囲に対していいことになるか、悪いことになるかはよくわからない。だけれども僕の人生哲学としては、僕は僕自身を至当に
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