働者の労働運動は労働者の手に委《ゆだ》ねて、僕は自分の運動の範囲を中流階級に向け、そこに全力を尽くそうとするだろうというまでだ。そういう覚悟を取ることがかえって経過の純粋性を保ち、事件の推移の自然を助けるだろうと信ずるのだ。かかる態度が直接に万が一にも労働階級のためになることがあるかもしれない。中流階級に訴える僕の仕事が労働階級によって利用される結果になるかもしれない。しかしそれは僕が甫《はじ》めから期待していたものではないので、結果が偶然にそうなったのにすぎないのだ。ある人が部屋の中を照らそうとして電燈を買って来た時、路上の人がそれを奪って往来安全の街燈に用いてさらに便利を得たとしても、電燈を買った人はそれを自分の功績とすることはできない。その「することはできない」という覚悟をもって自分の態度にしたいものだと僕は思うのだ。ここが客観的に物を見る人(片山氏のごときはその一人だと思う)と、前提しておいたように、僕自身の問題として物を見ようとする人との相違である。ここに来ると議論ではない、気持ちだ。兄はこの気持ちを推察してくれることができるとおもう。ここまでいうと「有島氏が階級争闘を是認し、新興階級を尊重し、みずから『無縁の衆生』と称し、あるいは『新興階級者に……ならしてもらおうとも思わない』といったりする……女性的な厭味《いやみ》」と堺氏の言った言葉を僕自身としては返上したくなる。
 次に堺氏が「ルソーとレーニン」および「労働者と知識階級」と題した二節の論旨を読むと、正直のところ、僕は自分の申し分が奇矯《ききょう》に過ぎていたのを感ずる。
 しかしながら僕はもう一度自分自身の心持ちを考えてみたい。僕が即今あらん限りの物を抛《なげう》って、無一文の無産者たる境遇に身を置いたとしても、なお僕には非常に有利な環境のもとに永年かかって植え込まれた知識と思想とがある。外見はいかにも無一文の無産者であろうけれども、僕の内部には現在の生活手段としてすこぶる都合のよい武器が潜んでいる。これは僕が失おうとしてもとうてい失うことのできないものだ。かかる優越的な頼みを持っていながら、僕ははたして内外ともに無産に等しい第四階級の多分の人々の感情にまではいりこむことができるだろうか。それを実感的にひしひしと誤りなく感ずることができるだろうか。そして私の思うところによれば、生命ある思想もしくは知
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