ならぬ。僕は芸術家としてプロレタリアを代表する作品を製作するに適していない。だから当然消滅せねばならぬブルジョアの一人として、そうした覚悟をもってブルジョアに訴えることに自分を用いねばならぬ。これがだいたい僕の主張なのである。僕にとっては、これほど明白な簡単な宣言はないのだ。本当をいうと、僕がもう少し謙遜《けんそん》らしい言葉遣いであの宣言をしたならば、そしてことさら宣言などいうたいそうな表現を用いなかったら、あの一文はもう少し人の同情を牽《ひ》いたかもしれない。しかし僕の気持ちとしては、あれ以上謙遜にも、あれ以上大胆にも物をいうことができなかったのだ。この点においては反感を買おうとも、憐《あわ》れみを受けようとも、そこは僕がまだ至らないのだとして沈黙しているよりいたしかたがない。
僕の感想文に対してまっ先に抗議を与えられたのは広津和郎氏と中村星湖氏とであったと記憶する。中村氏に対しては格別答弁はしなかったが、広津氏に対してはすぐに答えておいた(東京朝日新聞)。その後になって現われた批評には堺利彦氏と片山伸氏とのがある。また三上於菟吉《みかみおときち》氏も書いておられたが僕はその一部分より読まなかった。平林初之輔氏も簡単ながら感想を発表した。そのほか西宮藤朝氏も意見を示したとのことだったが、僕はついにそれを見る機会を持たなかった。
そこでこれらの数氏の所説に対する僕の感じを兄に報ずることになるのだが、それは兄にはたいして興味のある問題ではないかもしれない。僕自身もこんなことは一度言っておけばいいことで、こんなことが議論になって反覆応酬されては、すなわち単なる議論としての議論になっては、問題が問題だけに、鼻持ちのならないものになると思っている。しかし兄に僕の近況を報ずるとなると、まずこんなことを報ずるよりほかに事件らしい事件を持ち合わさない僕のことだから、兄の方で忍耐してそれを読むほかに策はあるまい。
僕の言ったことに対してとにかく親切な批評を与えたのは堺氏と片山氏とだった。堺氏は社会主義者としての立場から、片山氏は文明批評家としての立場から、だいたいにおいて立論している。この二氏の内の意見についての僕の考えを兄に報ずるに先立って、しつこいようだけれども、もう一度繰り返しておかなければならないのは、あの宣言なるものは僕一個の芸術家としての立場を決めるための宣言で
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