人の上にのみ臨む物凄いあきらめが首を擡げかけた。
 その時奇蹟のやうに風が方向を變へた。西に/\と走つて居た霧は足をすくはれたやうに暫らくたじろぐと見えたが、見る/\人々の眼がかすかな視力を囘復した。空はぼうつ[#「ぼうつ」に傍点]と明るくなつて人々の身のまはりに小さな世界が開けて行つた。やがて遠く高く微笑むやうな青空の一片が望まれた。と思ふ中に潮霧は夢のさめるやうに跡方もなく消えてなくなつた。それは慌だしい心よりもなほ慌だしく。
 霧が晴れて見ると夜は明けはなれてゐた。眞青な海、眞青な空、而して新しい朝の太陽。
 然し霧の過ぎ去ると共に、船の右舷に被ひかゝるやうに聳え立つた惠山の峭壁を見た時には、船員も船客も呀と魂を消して立ちすくむのみだつた。濃霧に漂ひ流れて居る間に船は知らず/\かゝる危地に臨んでゐたのを船員すらが知らずにゐたのだ。もう五分霧の晴れるのがおくれたならば! 船自身が魂でもあるやうに驚いて向きをかへなかつたならば! この惡魔のやうな峭壁は遂に船をかみくだいてたに違ひないのだ。
 函館に錨を下した汽船の舷梯から船客はいそ/\と笑ひ興じながら岸をめざして降りて行つた。先刻何
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