かれる牛の吼聲のやうなその汽笛。かすれては吼え、かすれては吼えて、吼えやむと物淋しい鐘が鳴り續く。
彼れの肺臟には空氣よりも多くの水氣が注ぎ込まれるやうに思へた。彼れは實際むせて咳いた。髮の毛からは滴が襟に傳はつた。而して耳と鼻とは氷のやうに冷えた。陽は復たと生れて來ない、さう思つた彼れの豫覺は悲しくも裏書きされて見えた。彼れは幾人もの男女が群盲のやうに手さぐりしながら彼れに近づくのに氣がつくと、何んとも云へぬ哀れみを覺えながらさう思つた。
汽笛が船中の人の眼をさましたのだ。而して眼をさまされたものは殘らず甲板に這ひ上つて來たのだ。
鐘の音と汽笛の聲との間に凡ての船客の歎きと訴への聲が泡のはじけるやうに聞こえ出した。
潮霧は東の空から寄せて來る。彼れの乘つて來た船は霧の大河の水底に沈んだ一枚の病葉に過ぎない。船客は極度の不安に達した。矢よりも早く流れて行くのに、濃霧の果ては何時來るとも思はれない。狂氣のやうなすゝり泣きが女と小兒とから慘らしく起り出した。葬のやうな淋しい鐘は鳴り續ける。凡ての人を醉はさないでは置かぬやうに船は停つたまゝかしぎ搖れる。
彼れの心には死に捕へられた
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