もやがて眼界から消え失せた。今は夜だ。聞耳を立てるとすつ[#「すつ」に傍点]と遠退いてしまふ夜の囁きが海からも空からも聞こえはじめた。何事でも起り得る、又何事も起り得ない夜、意志のやうな又運命のやうな夜、その夜が永久に自分を取りまくのだなと思ふと彼れはすくみ上つて船首樓《フオクスル》に凝立したまゝ、時の經つのも忘れてゐた。同じ晝ながら時のすゝむにつれて明るみの増すやうに、同じ夜ながら更の闌けるにつれて闇は深まつて行く。あたりには人氣が絶えた。如何すれば船客等は船底にやす/\と眠る事が出來るのだらう。今朝陽が上つたが故に明日又陽が上るものとは誰れが保證し得るのだ。先刻日の沈むのを見たものは陽の死ぬのを見たのだ。夫れだのに彼等は平氣だ。一體彼等は何物に自分々々の運命を任せてゐるのだらう。神にか。佛にか。無知にか。彼等は明日の朝この船が函館に着くものと思つてゐるのだ。思ひだもしてはゐないのだ。而して神々よりも勇ましく安心して等しなみに聲も立てずに眠つてゐる。
 かく思ひめぐらして彼れは夜露にしとつた肩をたゝきながら、船橋の方を見返った。眞暗な中に唯一人眠らないものがゐた。それは船長だ。その人
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