付かうとする雲を光の鞭でたゝき分けながら沈んで行く。笞を受けた雲は眩むばかりの血潮を浴びる。餘つた血潮は怖れをなして飛び退いた無數の鱗雲を、黄に紅に紫に染める。
 陽もやがて疲れて、叢雲の血煙を自分の身にも受けて燃え爛れた銅のやうになつた。堅く積み重つた雲の死骸の間を、斷末魔の苦悶にきり/\と獨樂のやうに舞ひながら沈んで行く。垂死の人が死に急ぐやうに陽は夜に急ぐ。彼れは息氣を飮んで夫れを見つめた。
 陽は見る間に少し隱れた。見る間に半分隱れた。見る間に全く隱れた。海は蒼茫として青み亙つた。ほの黄色い緩やかな呼吸を續けながら空も海の歎きを傳へた。
 その瞬間に萬象は聲を絶えた。黄昏は無聲である。そこには叫ぶ晝もない。又さゝやく夜もない。臨終の恐ろしい沈默が天と海とを領した。天と海とが沈默そのものになつた。
 汽鑵の騷音と云ふか。そんなものは音ではない、况して聲ではない。陽は永久に死んだ。復た生きる事はないだらう。彼れは身を慄はしてさう思つた。
 來た方をふり返ると大黒島の燈臺の灯だけが、聖者の涅槃のやうな光景の中に、小賢しくも消えたり光つたりしてゐる。室蘭はもう見えない。
 その燈臺の灯
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