か陷つた假睡から眼をさました。風は習々と東方から船尾を拂つて船首へと吹き出してゐるのだ。彼れの總身は身戰ひするまで冷え切つてゐた。見ると東の空は眼通りほど幕を張りつめたやうに眞黒なものに蔽はれてゐた。海面が急に高まつたかと思はれる彼方には星一つ光つてはゐなかつた。その黒いものは刻々高さを増して近づいて來る。風が東に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて潮霧《ガス》が襲つて來るのだと氣がついた時には、その黒かつたものは黒眞珠のやうな銀灰色に光つて二三町と思はれる距離に逼つてゐた。海に接した部分は風に吹かれる幕の裾のやうに煽られながら惡夢の物凄さを以て近よつて來る。見る/\近よつて來る。突然吹きちぎられた濃霧の一塊《ひとかたまり》が彼れを包んだ。彼れの眼は盲ひた。然し夫れは直ぐ船首の方へ飛び去つた。と思ふと第二の塊が來た。それも去つた。第三、第四、夫れも去つたと思ふ間もなく、彼れはとう/\むせ返るやうな寒い白さの中に包まれてしまつた。眼の前に圓く擴がつてゐた海は段々圓周をせばめて遂には眼前一尺の先きも見透す事が出來なくなつた。彼れは驚き慌てゝ探るやうに手舵を握ると、夫れを包んだカンバスはぐつしより[#「ぐつしより」に傍点]濕つてかん[#「かん」に傍点]/\にこはばつてゐた。檣頭に掲げられた灯が見る/\薄れて、唯あるかなきかの圓光に變つてしまつた。
彼れは船長の居る方へ目をやつた。その頭に宿る幾千年間の人智の蓄積にすがらうとしたのだ。然しひとかたまりの霧は幾千年の人間の努力を塵の如くにふみにじつてしまつたのではないか。今は姿さへ見えない船長は、胸をさわがせながら茫然として、舷橋の上に案山子のやうに立つてゐる事だらう。
暫らくの間船は事もなげに進路を取つて進むやうに見えた。然し夫れが徐行に變つたのは十分とはたゝない短い間だつた。突然この不思議な灰色の闇を劈いて時を知らせる鐘が續けさまに鳴り出した。思ふまゝに渦卷き過ぎる濃霧に閉ぢこめられてその鐘の音は陰々として淋しく響いた。
船はかく警戒しながら又十分程進んだが、やがて彼れは足の下にプロペラーのゆらめきを感じなくなつた。同時に船足の停つた船體は、三日目の茶の湯茶碗のやうな無氣味な搖れ方をしたまゝ停つて、波のまに/\漂ひ始めた。
彼れの心臟をどきん[#「どきん」に傍点]とさせて突然汽笛がなりはためいた。屠所に引かれる牛の吼聲のやうなその汽笛。かすれては吼え、かすれては吼えて、吼えやむと物淋しい鐘が鳴り續く。
彼れの肺臟には空氣よりも多くの水氣が注ぎ込まれるやうに思へた。彼れは實際むせて咳いた。髮の毛からは滴が襟に傳はつた。而して耳と鼻とは氷のやうに冷えた。陽は復たと生れて來ない、さう思つた彼れの豫覺は悲しくも裏書きされて見えた。彼れは幾人もの男女が群盲のやうに手さぐりしながら彼れに近づくのに氣がつくと、何んとも云へぬ哀れみを覺えながらさう思つた。
汽笛が船中の人の眼をさましたのだ。而して眼をさまされたものは殘らず甲板に這ひ上つて來たのだ。
鐘の音と汽笛の聲との間に凡ての船客の歎きと訴への聲が泡のはじけるやうに聞こえ出した。
潮霧は東の空から寄せて來る。彼れの乘つて來た船は霧の大河の水底に沈んだ一枚の病葉に過ぎない。船客は極度の不安に達した。矢よりも早く流れて行くのに、濃霧の果ては何時來るとも思はれない。狂氣のやうなすゝり泣きが女と小兒とから慘らしく起り出した。葬のやうな淋しい鐘は鳴り續ける。凡ての人を醉はさないでは置かぬやうに船は停つたまゝかしぎ搖れる。
彼れの心には死に捕へられた人の上にのみ臨む物凄いあきらめが首を擡げかけた。
その時奇蹟のやうに風が方向を變へた。西に/\と走つて居た霧は足をすくはれたやうに暫らくたじろぐと見えたが、見る/\人々の眼がかすかな視力を囘復した。空はぼうつ[#「ぼうつ」に傍点]と明るくなつて人々の身のまはりに小さな世界が開けて行つた。やがて遠く高く微笑むやうな青空の一片が望まれた。と思ふ中に潮霧は夢のさめるやうに跡方もなく消えてなくなつた。それは慌だしい心よりもなほ慌だしく。
霧が晴れて見ると夜は明けはなれてゐた。眞青な海、眞青な空、而して新しい朝の太陽。
然し霧の過ぎ去ると共に、船の右舷に被ひかゝるやうに聳え立つた惠山の峭壁を見た時には、船員も船客も呀と魂を消して立ちすくむのみだつた。濃霧に漂ひ流れて居る間に船は知らず/\かゝる危地に臨んでゐたのを船員すらが知らずにゐたのだ。もう五分霧の晴れるのがおくれたならば! 船自身が魂でもあるやうに驚いて向きをかへなかつたならば! この惡魔のやうな峭壁は遂に船をかみくだいてたに違ひないのだ。
函館に錨を下した汽船の舷梯から船客はいそ/\と笑ひ興じながら岸をめざして降りて行つた。先刻何
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