潮霧
有島武郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)潮霧《ガス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)きり/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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南洋に醗酵して本州の東海岸を洗ひながら北に走る黒潮が、津輕の鼻から方向を變へて東に流れて行く。樺太の氷に閉されてゐた海の水が、寒い重々しい一脈の流れとなつて、根室釧路の沖をかすめて西南に突進する。而してこの二つの潮流の尅する所に濃霧が起こる。北人の云ふ潮霧《ガス》とはそれだ。
六月のある日、陽のくれ/″\に室蘭を出て函館に向ふ汽船と云ふ程にもない小さな汽船があつた。
彼れはその甲板に立つてゐた。吹き落ちた西風の向ふに陽が沈む所だつた。駒ヶ嶽は雲に隱れて勿論見えない。禮文華《れぶんげ》峠の突角すら、魔女の髮のやうに亂れた初夏の雲の一部かと思はれる程朧ろである。陽は叢り立つて噛み付かうとする雲を光の鞭でたゝき分けながら沈んで行く。笞を受けた雲は眩むばかりの血潮を浴びる。餘つた血潮は怖れをなして飛び退いた無數の鱗雲を、黄に紅に紫に染める。
陽もやがて疲れて、叢雲の血煙を自分の身にも受けて燃え爛れた銅のやうになつた。堅く積み重つた雲の死骸の間を、斷末魔の苦悶にきり/\と獨樂のやうに舞ひながら沈んで行く。垂死の人が死に急ぐやうに陽は夜に急ぐ。彼れは息氣を飮んで夫れを見つめた。
陽は見る間に少し隱れた。見る間に半分隱れた。見る間に全く隱れた。海は蒼茫として青み亙つた。ほの黄色い緩やかな呼吸を續けながら空も海の歎きを傳へた。
その瞬間に萬象は聲を絶えた。黄昏は無聲である。そこには叫ぶ晝もない。又さゝやく夜もない。臨終の恐ろしい沈默が天と海とを領した。天と海とが沈默そのものになつた。
汽鑵の騷音と云ふか。そんなものは音ではない、况して聲ではない。陽は永久に死んだ。復た生きる事はないだらう。彼れは身を慄はしてさう思つた。
來た方をふり返ると大黒島の燈臺の灯だけが、聖者の涅槃のやうな光景の中に、小賢しくも消えたり光つたりしてゐる。室蘭はもう見えない。
その燈臺の灯もやがて眼界から消え失せた。今は夜だ。聞耳を立てるとすつ[#「すつ」に傍点]と遠退いてしまふ夜の囁きが海からも空からも聞こえはじめた。何事でも起り得る、又何事も起り得ない夜、意志のやうな又運命のやうな夜、その夜が永久に自分を取りまくのだなと思ふと彼れはすくみ上つて船首樓《フオクスル》に凝立したまゝ、時の經つのも忘れてゐた。同じ晝ながら時のすゝむにつれて明るみの増すやうに、同じ夜ながら更の闌けるにつれて闇は深まつて行く。あたりには人氣が絶えた。如何すれば船客等は船底にやす/\と眠る事が出來るのだらう。今朝陽が上つたが故に明日又陽が上るものとは誰れが保證し得るのだ。先刻日の沈むのを見たものは陽の死ぬのを見たのだ。夫れだのに彼等は平氣だ。一體彼等は何物に自分々々の運命を任せてゐるのだらう。神にか。佛にか。無知にか。彼等は明日の朝この船が函館に着くものと思つてゐるのだ。思ひだもしてはゐないのだ。而して神々よりも勇ましく安心して等しなみに聲も立てずに眠つてゐる。
かく思ひめぐらして彼れは夜露にしとつた肩をたゝきながら、船橋の方を見返った。眞暗な中に唯一人眠らないものがゐた。それは船長だ。その人は夜の隈取りをした朧ろげな姿を動かしながら天を仰いで六分儀を使つてゐた。彼れも亦それに引入れられて空を見上げた。永遠を思はせる程高くもなり、眉に逼るほど低くもなる夜の空は無數の星に燐光を放つて遠く擴がつていた。
彼れはまた思つた。大海の中心に漂ふ小舟を幾千萬哩の彼方にあるあの星々が導いて行くのだ。人の力がこの卑しい勞役を星に命じたのだ。船長は一箇の六分儀を以て星を使役する自信を持つてゐる。而して幾百の、少くとも幾十の生命に對する責任を輕々とその肩に乘せて居る。船客の凡ては、船長の頭に宿つた數千年の人智の蓄積に全く信頼して、些かの疑も抱かずにゐるのだ。人が己れの智識に信頼する、是れは人の誇りであらねばならぬ。夫れを躊躇する自分はおほそれた卑怯者と云ふべきである。
半時間毎に淋しい鐘が鳴つて又若干の時が過ぎた。船は暖潮に乘り入れたらしい。彼れは無風の暑苦しさに絶へかねて船首から船尾の方へ行つた。而してそこにある手舵に身をよせて立つて見た。冷々する風がそつと耳をかすめて通る。彼れは目を細めてその涼しさになぶられてゐた。
かくて又若干の時が過ぎた。
突然彼れは寒さを顏に覺えて何時のまに
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