は一日がかりでやっと追いついて行くありさまだから……」
 そう言って父は取ってつけたように笑った。
「今の世の中では自分がころんだが最後、世間はふり向きもしないのだから……まあお前も考えどおりやるならやってみるがいい。お前がなんと思おうと俺《わ》しは俺《わ》しだけのことはして行くつもりだ。……『その義にあらざれば一介も受けず。その義にあらざれば一介も与えず』という言葉があるな。今の世の中でまず嘘のないのはこうした生き方のほかにはないらしいて」
 こう言って父はぽっつりと口をつぐんだ。
 彼は何も言うことができなくなってしまった。「よしやり抜くぞ」という決意が鉄丸のように彼の胸の底に沈むのを覚えた。不思議な感激――それは血のつながりからのみ来ると思わしい熱い、しかし同時に淋しい感激が彼の眼に涙をしぼり出そうとした。
 厠《かわや》に立った父の老いた後姿を見送りながら彼も立ち上がった。縁側に出て雨戸から外を眺めた。北海道の山の奥の夜は静かに深更へと深まっていた。大きな自然の姿が遠く彼の眼の前に拡《ひろ》がっていた。



底本:「カインの末裔」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)
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