人の一人一人を招いて、その口から監督に対する訴訟と、農場の規約に関する希望とを聞き取っておく役廻りで、昨夜寝る時に父が彼に命令した仕事だった。小作人が次々に事務所をさして集まって来るのもそのためだったのだ。
 事務所に薄ぼんやりと灯が点《とも》された。燻製《くんせい》の魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡《くり》のようにがらんと黝《くろ》ずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。なんともいえない嫌悪の情が彼を焦《い》ら立たせるばかりだった。彼はそこを飛び出して行って畑の中の広い空間に突っ立って思い存分の呼吸がしたくてたまらなくなった。壁訴訟じみたことをあばいてかかって聞き取らねばならないほど農場というものの経営は入り組んでいるのだろうか。監督が父の代から居ついていて、着実で正直なばかりでなく、自分を一人の平凡人であると見切りをつけて、満足して農場の仕事だけを守っているのは、彼の歩いて行けそうな道ではなかったけれども、彼はそういう人に対して暖かい心を持たずにはいられなかった。その人を除《の》けものにしておいて、他人にその噂《うわさ》をさせ
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