彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨ててしまった。
 ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、
「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝手というものだぞ……聞いていればお前はさっきから俺《わ》しのすることを嘘だ嘘だと言いののしっとるが、お前は本当のことを何処《どこ》でしたことがあるかい。人と生まれた以上、こういう娑婆《しゃば》にいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。それともお前は俺《わ》しの眼の前に嘘をせんでいい世の中を作ってみせてくれるか。そしたら俺《わ》しもお前に未練なく兜《かぶと》を脱ぐがな」
 父のこの言葉ははっしと彼の心の真唯中《まっただなか》を割って過ぎた。実際彼は刃のようなひやっとしたものを肉体のどこかに感じたように思った。そして凝り上がるほど肩をそびやかして興奮していた自分を後《うし》ろめたく見いだした。父はさらに言葉を続けた。
「こんな小さな農場一つをこれだけにするのにも俺《わ》しがどれほど苦心をしたかお前は現在見ていたはずだ。いらざる取り越し苦労ばかりすると思うかもしれんが、あれほどの用意をしても世の中の事は水が漏れたがるものでな。そこはお前のような理屈一|遍《ぺん》ではとてもわかるまいが」
 なるほどそれは彼にとっては手痛い刃だ。そこまで押しつめられると、今までの彼は何事も言い得ずに黙ってしまっていた。しかし今夜こそはそこを突きぬけよう。そして父に彼の本質をしっかり知ってもらおうと心を定めた。
「わからないかもしれません。実際あなたが東京を発《た》つ前からこの事ばかり思いつめていらっしゃるのを見ていると、失礼ながらお気の毒にさえ感じたほどでした。……私は全くそうした理想屋です。夢ばかり見ているような人間です。……けれども私の気持ちもどうか考えてください。私はこれまで何一つしでかしてはいません。自体何をすればいいのか、それさえ見きわめがついていないような次第です。ひょっとすると生涯こうして考えているばかりで暮らすのかもしれないんですが、
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