見えなかった。矢部の前で、十一、二の子供でも叱《しか》りつけるような小言を言ったことなどもからっと忘れてしまっているようだった。
「うまいことに行った。矢部という男はかねてからなかなか手ごわい悧巧者《りこうもの》だとにらんでいたから、俺《わ》しは今日の策戦には人知れぬ苦労をした。そのかいあって、先方がとうとう腹を立ててしまったのだ。掛引きで腹を立てたら立てたほうが敗け勝負だよ。貸し越しもあったので実はよけい心配もしたのだが、そんなものを全部差し引くことにして報酬共に五千円で農場全部がこちらのものになったのだ。これでこの農場の仕事は成功に終わったといっていいわけだ」
「私には少しも成功とは思えませんが……」
 これだけを言うのにも彼の声は震えていた。しかし日ごろの沈黙に似ず、彼は今夜だけは思う存分に言ってしまわなければ、胸に物がつまっていて、当分は寝ることもできないような暴《あば》れた気持ちになってしまっていたのだ。
「今日農場内を歩いてみると、開墾のはじめにあなたとここに来ましたね、あの時と百姓の暮らし向きは同じなのに私は驚きました。小作料を徴収したり、成墾費が安く上がったりしたことには成功したかもしれませんが、農場としてはいったいどこが成功しているんでしょう」
「そんなことを言ったってお前、水呑百姓《みずのみひゃくしょう》といえばいつの世にでも似たり寄ったりの生活をしているものだ。それが金持ちになったら汗水垂らして畑をするものなどは一人もいなくなるだろう」
「それにしてもあれはあんまりひどすぎます」
「お前は百歩をもって五十歩を笑っとるんだ」
「しかし北海道にだって小作人に対してずっといい分割りを与えているところはたくさんありますよ」
「それはあったとしたら帳簿を調べてみるがいい、きっと損をしているから」
「農民をあんな惨《みじ》めな状態におかなければ利益のないものなら、農場という仕事はうそですね」
「お前は全体本当のことがこの世の中にあるとでも思っとるのか」
 父は息子の融通のきかないのにも呆《あき》れるというようにそっぽを向いてしまった。
「思ってはいませんがね。しかし私にはどうしても現在のようにうそばかりで固めた生活ではやり切れません。矢部という人に対してのあなたの態度なども、お考えになったらあなたもおいやでしょう。まるでぺてんですものね。始めから先方に腹を
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