風で挨拶一つすると立ち上がった。彼と監督とは事務所のほうまで矢部を送って出たが、監督が急がしく靴をはこうとしているのを見ると、矢部は押しかえすような手つきをして、
「早田君、君が送ってくれては困る。荷物は誰かに運ばせてください。それでなくてさえ且那はお互いの間を妙にからんで疑っておいでになるのだ。しかし君のことはよくお話ししておいたから……万事が落着するまでは君は私から遠退《とおの》いているようにしてくれたまえ。送って来ちゃいけませんよ」
それから矢部は彼の方に何か言いかけようとしたが、彼に対してさえ不快を感じたらしく、監督の方に向いて、
「六年間|只奉公《ただぼうこう》してあげくの果《は》てに痛くもない腹を探られたのは全くお初《は》つだよ。私も今夜という今夜は、慾もへちまもなく腹を立てちゃった。じゃこちらがすっかりかたずいたうえで、札幌にも出ておいでなさい。その節万事私のほうのかたはつけますから。御免」
「御免」という挨拶だけを彼に残して、矢部は星だけがきらきら輝いた真暗なおもてへ駈《か》け出すように出て行ってしまった。彼はそこに立ったまま、こんな結果になった前後の事情を想像しながら遠ざかってゆく靴音を聞き送っていた。
その晩父は、東京を発《た》った時以来何処に忘れて来たかと思うような笑い顔を取りもどして晩酌を傾けた。そこに行くとあまり融通のきかない監督では物足らない風で、彼を対手《あいて》に話を拡げて行こうとしたが、彼は父に対する胸いっぱいの反感で見向きもしたくなかった。それでも父は気に障《さ》えなかった。そしてしかたなしに監督に向きなおって、その父に当たる人の在世当時の思い出話などをして一人|興《きょう》がった。
「元気のいい老人だったよ、どうも。酔うといつでも大肌《おおはだ》ぬぎになって、すわったままひとり角力《ずもう》を取って見せたものだったが、どうした癖か、唇を締めておいて、ぷっぷっと唾《つばき》を霧のように吹き出すのには閉口した」
そんなことをおおげさに言いだして父は高笑いをした。監督も懐旧の情を催すらしく、人のいい微笑を口のはたに浮かべて、
「ほんとにそうでした」
と気のなさそうな合槌《あいづち》を打っていた。
そのうちに夜はいいかげん更《ふ》けてしまった。監督が膳を引いてしまうと、気まずい二人が残った。しかし父のほうは少しも気まずそうには
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