人の一人一人を招いて、その口から監督に対する訴訟と、農場の規約に関する希望とを聞き取っておく役廻りで、昨夜寝る時に父が彼に命令した仕事だった。小作人が次々に事務所をさして集まって来るのもそのためだったのだ。
 事務所に薄ぼんやりと灯が点《とも》された。燻製《くんせい》の魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡《くり》のようにがらんと黝《くろ》ずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。なんともいえない嫌悪の情が彼を焦《い》ら立たせるばかりだった。彼はそこを飛び出して行って畑の中の広い空間に突っ立って思い存分の呼吸がしたくてたまらなくなった。壁訴訟じみたことをあばいてかかって聞き取らねばならないほど農場というものの経営は入り組んでいるのだろうか。監督が父の代から居ついていて、着実で正直なばかりでなく、自分を一人の平凡人であると見切りをつけて、満足して農場の仕事だけを守っているのは、彼の歩いて行けそうな道ではなかったけれども、彼はそういう人に対して暖かい心を持たずにはいられなかった。その人を除《の》けものにしておいて、他人にその噂《うわさ》をさせて平気で聞いていることはどうしても彼にはできないと思った。
 ともかく、彼は監督に頼んで執務室に火を入れてもらって、小作人を一人一人そこに呼び入れた。そして農場の経営に関する希望だけを聞くことにした。五、六人の人が出はいりする前に、彼は早くもそんなことをする無益さを思い知らねばならなかった。頭の鈍《にぶ》い人たちは、申し立つべき希望の端くれさえ持ち合わしてはいなかったし、才覚のある人たちは、めったなことはけっして口にしなかった。去年も今年も不作で納金に困る由をあれだけ匂《にお》わしておきながら、いざ一人になるとそんな明らかなことさえ訴えようとする人はなかった。彼はそれでも十四、五人までは我慢したが、それで全く絶望してもう小作人を呼び入れることはしなかった。そして火鉢の上に掩《おお》いかぶさるようにして、一人で考えこんでしまった。なんということもなく、父に対する反抗の気持ちが、押さえても押さえても湧き上がってきて、どうすることもできなかった。
 ほど経てから内儀《おかみ》さんが恐る恐るやって来て、夕食のしたくができたからと言って来た。食慾は不思議になくなっていたけれども、彼はしょうことな
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