取られて思わず父の顔を見た。泣き笑いと怒りと入れ交ったような口惜しげな父の眼も烈しく彼を見込んでいた。そして極度の侮蔑《ぶべつ》をもって彼から矢部の方に向きなおると、
「あなたひとつお願いしましょう、ちょっと算盤《そろばん》を持ってください」
とほとほと好意をこめたと聞こえるような声で言った。
矢部は平気な顔をしながらすぐさま所要の答えを出してしまった。
もうこれ以上彼のいる場所ではないと彼は思った。そしてふいと立ち上がるとかまわずに事務所の方に行ってしまった。
座敷とは事かわって、すっかり暗くなった囲炉裡《いろり》のまわりには、集まって来た小作人を相手に早田が小さな声で浮世話をしていた。内儀《おかみ》さんは座敷の方に運ぶ膳《ぜん》のものが冷えるのを気にして、椀《わん》のものをまたもとの鍋にかえしたりしていた。彼がそこに出て行くと、見る見るそこの一座の態度が変わって、いやな不自然さがみなぎってしまった。小作人たちはあわてて立ち上がるなり、草鞋《わらじ》のままの足を炉ばたから抜いて土間《どま》に下り立つと、うやうやしく彼に向かって腰を曲げた。
「若い且那《だんな》、今度はまあ御苦労様でございます」
その中で物慣れたらしい半白の丈《た》けの高いのが、一同に代わってのようにこう言った。「御苦労はこっちのことだぞ」そうその男の口の裏は言っているように彼には感じられた。不快な冷水を浴びた彼は改めて不快な微温湯を見舞われたのだ。それでも彼は能《あた》うかぎり小作人たちに対して心置きなく接していたいと願った。それは単にその場合のやり切れない気持ちから自分がのがれ出たかったからだ。小作人たちと自分とが、本当に人間らしい気持ちで互いに膝《ひざ》を交えることができようとは、夢にも彼は望み得なかったのだ。彼といえどもさすがにそれほど自己を偽瞞《ぎまん》することはできなかった。
けれどもあまりといえばあんまりだった。小作人たちは、
「さあ、ずっとお寄りなさって。今日は晴れているためかめっきり冷えますから」
と早田が口添えするにもかかわらず、彼らはあてこすりのように暗い隅っこを離れなかった。彼は軽い捨て鉢な気分でその人たちにかまわず囲炉裡《いろり》の横座にすわりこんだ。
内儀《おかみ》さんがランプを座敷に運んで行ったが、帰って来ると父からの言いつけを彼に伝えた。それは彼が小作
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