……」
「とうから」と聞きかえした時に父のほうから思わず乗り出した気配《けはい》があったが、すぐとそれを引き締めるだけの用意は欠いていなかった。
「それはこちらとしても都合のいいことではあります。しかし金高の上の折り合いがどんなものですかな。昨夜早田と話をした時、聞きただしてみると、この辺の土地の売買は思いのほか安いものですよ」
 父は例の手帳を取り出して、最近売買の行なわれた地所の価格を披露しにかかると、矢部はその言葉を奪うようにだいたいの相場を自分のほうから切り出した。彼は昨夜の父と監督との話を聞いていたのだが、矢部の言うところは(始終札幌にいてこの土地に来たのははじめてだと言ったにもかかわらず)けっしてけたをはずれたようなものではなかった。それを聞く父は意外に思ったらしかったが、彼もちょっと驚かされた。彼は矢部と監督との間に何か話合いがちゃんとできているのではないかとふと思った。まして父がそううたぐるのは当然なことだ。彼はすぐ注意して父を見た。その眼は明らかに猜疑《さいぎ》の光を含んで、鋭く矢部の眼をまともに見やっていた。
 最後の白兵戦になったと彼は思った。
 もう夕食時はとうに過ぎ去っていたが、父は例の一徹からそんなことは全く眼中になかった。彼はかくばかり迫り合った空気をなごやかにするためにも、しばらくの休戦は都合のいいことだと思ったので、
「もうだいぶ晩《おそ》くなりましたから夕食にしたらどうでしょう」
 と言ってみた。それを聞くと父の怒りは火の燃えついたように顔に出た。
「馬鹿なことを言うな。この大事なお話がすまないうちにそんな失礼なことができるものか」
 と矢部の前で激しく彼をきめつけた。興奮が来ると人前などをかまってはいない父の性癖だったが、現在矢部の前でこんなものの言い方をされると、彼も思わずかっとなって、いわば敵を前において、自分の股肱《ここう》を罵《ののし》る将軍が何処《どこ》にいるだろうと憤ろしかった。けれども彼は黙って下を向いてしまったばかりだった。そして彼は自分の弱い性格を心の中でもどかしく思っていた。
「いえ手前でございますならまだいただきたくはございませんから……全くこのお話は十分に御了解を願うことにしないとなんでございますから……しかし御用意ができましたのなら……」
「いやできておっても少しもかまわんのです」
 父は矢部の取りなし
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