ほいく》との負担からして、実生活の活動を男性に依託せねばならなかった。男性は野の獣があるように、始めは甘んじて、勇んでこの分業に従事した。けれども長い歳月の間に、男性はその活動によって益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》その心身の能力を発達せしめ、女性の能力は或る退縮を結果すると共に、益※[#二の字点、1−2−22]活動の範囲を狭《せば》めて行って、遂にはその活動を全く稼穡《かしょく》の事にのみ限るようになった。こうなると男性は女性の分をも負担して活動せねばならぬ故に、生活の荷は苦痛として男性の肩上にかかって来た。男性はかくてこの苦痛の不満を癒《いや》すべき報償を女性に要求するに至った。女性は然しこの時に於ては、実生活の仕事の上で男性に何物をか提供すべき能力を失い果てていた。女性には単に彼女の肉体があるばかりだった。そしてその点から prostitution は始まったのだ。女性は忍んで彼女の肉体を男性に提供することを余儀なくされたのだ。かくて女性は遂に男性の奴隷となり終った。そして女性は自らが在《あ》る以上に自分を肉慾的にする必要を感じた。女性に殊《こと》に著しい美的|扮装《ふんそう》(これは極《きわ》めて外面的の。女性は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》練絹《ねりぎぬ》の外衣の下に襤褸《つづれ》の肉衣を着る)、本能の如き嬌態《きょうたい》、女性間の嫉視《しっし》反目(姑《しゅうとめ》と嫁、妻と小姑の関係はいうまでもあるまい。私はよく婦人から同性中に心を許し合うことの出来る友人のないことを聞かされる)はそこから生れ出る。男性は女性からのこの提供物を受取ったことによって、又自分自らを罰せなければならなかった。彼は先《ま》ず自分の家の中に暴虐性を植えつけた。専制政治の濫觴《らんしょう》をここに造り上げた。そして更に悪いことには、その生んだ子に於て、彼等以上の肉慾性を発揮するものを見出さねばならなかった。
 これは私がいわないでも多くの読者は知ってそして肯《がえ》んずる事実であろうと思う。私はここでこの男女関係の狂いが何故最も悪い狂いであるかをいいたい。この堕落の過程に於て最も悪いことは、人間がその本能的要求を智的要求にまで引き下げたという点にあるのだ。男女の愛は本能の表現として純粋に近くかつ全体的なものである。同性間の愛にあっては本能は分裂して、精神的(若し同性間に異性関係の仮想が成立しなければ)という一方面にのみ表現される。親子の愛にしても、兄弟の愛にしても皆等しい。然し男女の愛に於て、本能は甫《はじ》めてその全体的な面目を現わして来る。愛する男女のみが真実なる生命を創造する。だから生殖の事は全然本能の全要求によってのみ遂げられなければならぬのだ。これが男女関係の純一無上の要件である。然るに女性は必要に逼《せまら》れるままに、誤ってこの本能的欲求を智的生活の要求に妥協させてしまった。即ち本能の欲求以外の欲求、即ち単なる生活慾の道具に使った。そして男性は卑しくもそれをそのまま使用した。これが最も悪いことだったと私は云うのだ。これより悪いことが多く他にあろうか。
 楽園は既に失われた。男女はその腰に木の葉をまとわねばならなくなった。女性は男性を恨み、男性は女性を侮りはじめた。恋愛の領土には数限りもなく仮想的恋愛が出現するので、真の恋愛をたずねあてるためには、女性は極度の警戒を、男性は極度の冒険をなさねばならなくなった。野の獣にも生殖を営むべき時期は一年の中に定まって来るのに、人間ばかりは已む時なく肉慾の為めにさいなまれなければならぬ。しかも更に悪いことには、人間はこの運命の狂いを悔いることなく、殆《ほと》んど捨鉢《すてばち》な態度で、この狂いを潤色し、美化し、享楽しようとさえしているのだ。
 私達は幸いにして肉体の力のみが主として生活の手段である時期を通過した。頭脳もまた生活の大きな原動力となり得《う》べき時代に到達した。女性は多くを失ったとしても、体力に失ったほどには脳力に失っていない。これが女性のその故郷への帰還の第一程となることを私は祈る。この男女関係の堕落はどれ程の長い時間の間に馴致されたか、それは殆んど計ることが出来ない。然しそれが堕落である以上は、それに気がついた時から、私達は楽園への帰還を企図せねばならぬ。一人でも二人でも、そこに気付いた人は一人でも二人でも忍耐によってのみ成就される長い旅に上らなければならない。
 私はよくそれが如何に不可能事に近いとさえ思われる困難な道であるかを知る。私もまたその狂いの中に生れて育って来た憐《あわ》れな一人の男性に過ぎない。私は跌《つまず》きどおしに跌いている。然し私の本能のかすかな声は私をそこから立ち上らせるに十分だ。私はその声に推し進められて行く。その旅路は長い耽溺《たんでき》の過去を持った私を寂しく思わせないではない。然しそれにもかかわらず私は行かざるを得ない。
 この男女関係の狂いから当然帰納されることは、現在の文化が男女両性の協力によって成り立つものではないという事だ。現時の文化は大は政治の大から小は手桶《ておけ》の小に至るまで悉《ことごと》く男子の天才によって作り上げられたものだといっていい。男性はその凡ての機関の恰好な使用者であるけれども、女性がそれに与《あず》かるためには、或る程度まで男性化するにあらざれば与かることが出来ない。男性は巧みにも女性を家族生活の片隅《かたすみ》に祭りこんでしまった。しかも家族生活にあっても、その大権は確実に男性に握られている。家族に供する日常の食膳と、衣服とは女性が作り出すことが出来よう。然しながら饗応《きょうおう》の塩梅《あんばい》と、晴れの場の衣裳とは、遂に男性の手によってのみ巧みに作られ得る。それは女性に能力がないというよりは、それらのものが凡《すべ》てその根柢《こんてい》に於て男性の嗜好《しこう》を満足するように作られているが故に、それを産出するのもまたおのずから男性の手によってなされるのを適当とするだけのことだ。
 地球の表面には殆んど同数の男女が生きている。そしてその文化が男性の欲求にのみ適合して成り立つとしたら、それが如何に不完全な内容を持ったものであるかが直ちに看取されるだろう。
 女性が今の文化生活に与ろうとする要求を私は無下《むげ》に斥《しりぞ》けようとする者ではない。それは然しその成就が完全な女性の独立とはなり得ないということを私は申し出したい。若し女性が今の文化の制度を肯定して、全然それに順応することが出来たとしても、それは女性が男性の嗜好に降伏して自分達自らを男性化し得たという結果になるに過ぎない。それは女性の独立ではなく、女性の降伏だ。
 唯《ただ》外面的にでも女性が自ら動くことの出来る余地を造っておいて、その上で女性の真要求を尋ね出す手段としてならば、私は女権運動を承認する。
 それにも増して私が女性に望むところは、女性が力を合せて女性の中から女性的天才を生み出さんことだ。男性から真に解放された女性の眼を以て、現在の文化を見直してくれる女性の出現を祈らんことだ。女性の要求から創り出された文化が、これまでの文化と同一内容を持つだろうか、持たぬだろうか、それは男性たる私が如何に努力しても、臆測《おくそく》することが出来ない。そして恐らくは誰も出来ないだろう。その異同を見極めるだけにでも女性の中から天才の出現するのは最も望まるべきことだ。同じであったならそれでよし、若し異っていたら、男性の創《つく》り上げた文化と、女性のそれとの正しき抱擁によって、それによってのみ、私達凡ての翹望《ぎょうぼう》する文化は成り立つであろう。
 更に私は家族生活について申し出しておく。家族とは愛によって結び付いた神聖な生活の単位である。これ以外の意味をそれに附け加えることは、その内容を混乱することである。法定の手続と結婚の儀式とによって家族は本当の意味に於て成り立つと考えられているが、愛する男女に取っては、本質的にいうと、それは少しも必要な条件ではない。又離婚即ち家族の分散が法の認許によって成り立つということも必要な条件ではない。凡てかかる条件は、社会がその平安を保持するために案出して、これを凡ての男女に強制しているところのものだ。国家が今あるがままの状態で、民衆の生活を整理して行くためには、家族が小国家の状態で強国に維持されることを極めて便利とする。又財産の私有を制度となさんためには、家族制度の存立と財産継承の習慣とが欠くべからざる必要事である。これらの外面的な情実から、家族は国家の柱石、資本主義の根拠地となっている。その為めには、縦令《たとい》愛の失われた男女の間にも、家族たる形体を固守せしめる必要がある。それ故に家族の分散は社会が最も忌み嫌《きら》うところのものである。
 おしなべての男女もまた、社会のこの不言不語の強圧に対して柔順である。彼等の多数は愛のない所にその形骸《けいがい》だけを続ける。男性はこの習慣に依頼して自己の強権を保護され、女性はまたこの制度の庇護《ひご》によってその生存を保障される。そしてかくの如き空虚な集団生活の必然的な結果として、愛なき所に多数の子女が生産される。そして彼等は親の保護を必要とする現在の社会にあって(私は親の保護を必要としない社会を予想しているが故にかくいうのだ)親の愛なくして育たねばならぬ。そして又一方には、縦令愛する男女でも、家族を形造るべき財産がないために、結婚の形式を取らずに結婚すれば、その子は私生児として生涯隣保の擯斥《ひんせき》を受けねばならぬ。
 社会からいったならば、かかる欠陥は縦令必然的に起って来るとしても、なお家族制度を固執することに多分の便利が認められよう。然し個性の要求及びその完成から考える時、それはいかに不自然な結果を生ずるであろうよ。第一この制度の強制的存在のために、家族生活の神聖は、似而《にて》非《ひ》なる家族の交雑によって著しく汚される。愛なき男女の結合を強制することは、そのまま生活の堕落である。愛によらざる産子《さんし》は、産者にとって罪悪であり、子女にとって救われざる不幸である。愛によって生れ出た子女が、侮辱を蒙《こうむ》らねばならぬのは、この上なき曲事《きょくじ》である。私達はこれを救わなければならない。それが第一の喫緊事だ。それらのことについて私達はいかなるものの犠牲となっていることも出来ない。若しこの欲求の遂行によって外界に不便を来すなら、その外界がこの欲求に適応するように改造されなければならぬ筈《はず》だ。
 愛のある所には常に家族を成立せしめよ。愛のない所には必ず家族を分散せしめよ。この自由が許されることによってのみ、男女の生活はその忌むべき虚偽から解放され得る。自由恋愛から自由結婚へ。
 更に又、私は恋愛そのものについて一言を附け加える。恋愛の前に個性の自己に対する深き要求があることを思え。正しくいうと個性の全的要求によってのみ、人は愛人を見出すことに誤謬《ごびゅう》なきことが出来る。そして個性の全的要求は容易に愛を異性に対して動かさせないだろう。その代り一度見出した愛人に対しては、愛はその根柢から揺《ゆら》ぎ動くだろう。かくてこそその愛は強い。そして尊い。愛に対する本能の覚醒《かくせい》なしには、縦令男女交際にいかなる制限を加うるとも、いかなる修正を施すとも、その努力は徒労に終るばかりであろう。

        二四

 もう私は私の饒舌《じょうぜつ》から沈黙すべき時が来た。若し私のこの感想が読者によって考えられるならば、部分的に於てでなく、全体に於て考えられんことを望む。殊《こと》に本能的生活の要求を現実の生活にあてはめて私が申出た言葉に於てそうだ。社会生活はその総量に於て常に顧慮されなければならぬ。その一部門だけに対する凝視は、往々にして人を迷路に導き込むだろう。
 私もまた部分的考察に走り過ぎた嫌《きら》いがないとはいえない。私は人間に現われた本能即ち愛の本能をもっと委《くわ》しく語ってやむべきであ
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