て私自身の外に厳存する運命の手が現われ出る。私はそこでは否むべからざる宿命の感じにおびえねばならぬ。河の水は自らの位置を選択すべき道を知らぬ。然し人間はそれを知っている。そしてその選択を実行することが出来る。それは人間の有する自覚がさせる業である。
人は運命の主であるか奴隷であるか。この問題は屡※[#二の字点、1−2−22]私達を悒鬱《ゆううつ》にする。この問題の決定的批判なしには、神に対する悟りも、道徳律の確定も、科学の基礎も、人間の立場も凡て不安定となるだろう。私もまたこの問題には永く苦しんだ。然し今はかすかながらもその解決に対する曙光《しょこう》を認め得た心持がする。
若し本能的生活が体験せられたなら、それを体験した人は必ず人間の意志の絶対自由を経験したに違いない。本能の生活は一元的であってそれを牽制《けんせい》すべき何等の対象もない。それはそれ自身の必然な意志によって、必然の道を踏み進んで行く。意志の自由とは結局意志そのものの必然性をいうのではないか。意志の欲求を認めなければ、その自由不自由の問題は起らない。意志の欲求を認め、その意志の欲求が必然的であるのを認め、本能的境地
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