ばいいのか。誰がそれを私に教えてくれるのだろう。……結局それは私自身ではないか。
思えばそれは寂しい道である。最も無力なる私は私自身にたよる外の何物をも持っていない。自己に矛盾し、自己に蹉跌《さてつ》し、自己に困迷する、それに何の不思議があろうぞ。私は時々私自身に対して神のように寛大になる。それは時々私の姿が、母を失った嬰児《えいじ》の如く私の眼に映るからだ。嬰児は何処をあてどもなく匍匐《ほふく》する。その姿は既に十分|憐《あわ》れまれるに足る。嬰児は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》過って火に陥る、若《も》しくは水に溺《おぼ》れる。そして僅《わず》かにそこから這《は》い出ると、べそをかきながら又匍匐を続けて行く。このいたいけな姿を憐れむのを自己に阿《おもね》るものとのみ云い退けられるものであろうか。縦令《たとい》道徳がそれを自己|耽溺《たんでき》と罵《ののし》らば罵れ、私は自己に対するこの哀憐《あいれん》の情を失うに忍びない。孤独な者は自分の掌《てのひら》を見つめることにすら、熱い涙をさそわれるのではないか。
思えばそれは嶮《けわ》しい道でもある。私の主体とは私自身だと
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