ある以上、この私の生命は何といっても私のものだ。私はこの生命を私の思うように生きることが出来るのだ。私の唯一の所有よ。私は凡《すべ》ての懐疑にかかわらず、結局それを尊重|愛撫《あいぶ》しないでいられようか。涙にまで私は自身を痛感する。
一人の旅客が永劫の道を行く。彼を彼自身のように知っているものは何処《どこ》にもいない。陽の照る時には、彼の忠実な伴侶《はんりょ》はその影であるだろう。空が曇り果てる時には、そして夜には、伴侶たるべき彼の影もない。その時彼は独《ひと》り彼の衷《うち》にのみ忠実な伴侶を見出《みいだ》さねばならぬ。拙《つたな》くとも、醜くとも、彼にとっては、彼以上のものを何処に求め得よう。こう私は自分を一人の旅客にして見る時もある。
私はかくの如くにして私自身である。けれども私の周囲に在《あ》る人や物やは明かに私ではない。私が一つの言葉を申し出る時、私以外の誰が、そして何が、私がその言葉をあらしめるようにあらしめ得るか。私は周囲の人と物とにどう繋《つな》がれたら正しい関係におかれるのであろう。如何《いか》なる関係も可能ではあり得ないのか。可能ならばそれを私はどうして見出せばいいのか。誰がそれを私に教えてくれるのだろう。……結局それは私自身ではないか。
思えばそれは寂しい道である。最も無力なる私は私自身にたよる外の何物をも持っていない。自己に矛盾し、自己に蹉跌《さてつ》し、自己に困迷する、それに何の不思議があろうぞ。私は時々私自身に対して神のように寛大になる。それは時々私の姿が、母を失った嬰児《えいじ》の如く私の眼に映るからだ。嬰児は何処をあてどもなく匍匐《ほふく》する。その姿は既に十分|憐《あわ》れまれるに足る。嬰児は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》過って火に陥る、若《も》しくは水に溺《おぼ》れる。そして僅《わず》かにそこから這《は》い出ると、べそをかきながら又匍匐を続けて行く。このいたいけな姿を憐れむのを自己に阿《おもね》るものとのみ云い退けられるものであろうか。縦令《たとい》道徳がそれを自己|耽溺《たんでき》と罵《ののし》らば罵れ、私は自己に対するこの哀憐《あいれん》の情を失うに忍びない。孤独な者は自分の掌《てのひら》を見つめることにすら、熱い涙をさそわれるのではないか。
思えばそれは嶮《けわ》しい道でもある。私の主体とは私自身だと知るのは、私を極度に厳粛にする。他人に対しては与え得ないきびしい鞭打《むちうち》を与えざるを得ないものは畢竟《ひっきょう》自身に対してだ。誘惑にかかったように私はそこに導かれる。笞《しもと》にはげまされて振い立つ私を見るのも、打撲に抵抗し切れなくなって倒れ伏す私を見るのも、共に私が生きて行く上に、無くてはならぬものであるのを知る。その時に私は勇ましい。私の前には力一杯に生活する私の外には何物をも見ない。私は乗り越え乗り越え、自分の力に押され押されて未見の境界へと険難を侵して進む。そして如何なる生命の威脅にもおびえまいとする。その時傷の痛みは私に或る甘さを味《あじわ》わせる。然しこの自己緊張の極点には往々にして恐ろしい自己疑惑が私を待ち設けている。遂に私は疲れ果てようとする。私の力がもうこの上には私を動かし得ないと思われるような瞬間が来る。私の唯一つの城廓なる私自身が見る見る廃墟《はいきょ》の姿を現わすのを見なければならないのは、私の眼前を暗黒にする。
けれどもそれらの不安や失望が常に私を脅かすにもかかわらず、太初《はじめ》の何であるかを知らない私には、自身を措《お》いてたよるべき何物もない。凡ての矛盾と渾沌《こんとん》との中にあって私は私自身であろう。私を実価以上に値《ね》ぶみすることをしまい。私を実価以下に虐待することもしまい。私は私の正しい価の中にあることを勉めよう。私の価値がいかに低いものであろうとも、私の正しい価値の中にあろうとするそのこと自身は何物かであらねばならぬ。縦《よ》しそれが何物でもないにしろ、その外に私の採るべき態度はないではないか。一個の金剛石を持つものは、その宝玉の正しい価値に於《おい》てそれを持とうと願うのだろう。私の私自身は宝玉のように尊いものではないかも知れない。然し心持に於ては宝玉を持つ人の心持と少しも変るところがない。
私は私のもの、私のただ一つのもの。私は私自身を何物にも代え難く愛することから始めねばならない。
若し私のこの貧しい感想を読む人があった時、この出発点を首肯することが出来ないならば、私はその人に更にいい進むべき何物をも持ち得ない。太初が道《ことば》であるか行《おこない》であるかを(考えるのではなく)知り切っている人に取っては、この感想は無視さるべき無益なものであろう。私は自分が極《きわ》めて低い生活途上に立ってい
前へ
次へ
全44ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング