り得ることだ。然し二人の愛が互に完全に奪い合わないでいる場合でも、若し私の愛が強烈に働くことが出来れば、私の生長は益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》拡張する。そして或る世界が――時間と空間をさえ撥無《はつむ》するほどの拡がりを持った或る世界が――個性の中にしっかりと建立《こんりゅう》される。そしてその世界の持つ飽くことなき拡充性が、これまでの私の習慣を破り、生活を変え、遂には弱い、はかない私の肉体を打壊するのだ。破裂させてしまうのだ。
 難者のいう自滅とは畢竟《ひっきょう》何をさすのだろう。それは単に肉体の亡滅を指すに過ぎないではないか。私達は人間である。人間は必ずいつか死ぬ。何時《いつ》か肉体が亡びてしまう。それを避けることはどうしても出来ない。然し難者が、私が愛したが故に死なねばならぬ場合、私の個性の生長と自由とが失われていると考えるのは間違っている。それは個性の亡失ではない。肉体の破滅を伴うまで生長し自由になった個性の拡充を指しているのだ。愛なきが故に、個性の充実を得切らずに定命《じょうみょう》なるものを繋《つな》いで死なねばならぬ人がある。愛あるが故に、個性の充実を完《まっと》うして時ならざるに死ぬ人がある。然しながら所謂《いわゆる》定命の死、不時の死とは誰が完全に決めることが出来るのだ。愛が完うせられた時に死ぬ、即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破る、それを定命の死といわないで何処《どこ》に正しい定命の死があろう。愛したものの死ほど心安い潔《いさぎよ》い死はない。その他の死は凡て苦痛だ。それは他の為めに自滅するのではない。自滅するものの個性は死の瞬間に最上の生長に達しているのだ。即ち人間として奪い得る凡てのものを奪い取っているのだ。個性が充実して他に何の望むものなき境地を人は仮りに没我というに過ぎぬ。
 この事実を思うにつけて、いつでも私に深い感銘を与えるものは、基督《キリスト》の短い地上生活とその死である。無学な漁夫と税吏《みつぎとり》と娼婦《しょうふ》とに囲繞《いにょう》された、人眼《ひとめ》に遠いその三十三年の生涯にあって、彼は比類なく深く善い愛の所有者であり使役者であった。四十日を荒野に断食して過した時、彼は貧民救済と、地上王国の建設と、奇蹟的《きせきてき》能力の修得を以ていざなわれた。然し彼は純粋な愛の事業の外には何物をも択《えら》ばなかった。彼は智的生活の為めには、即ち地上の平安の為めには何事をも敢えてなさなかった。彼はその母や弟とは不和になった。多くの子をその父から反《そむ》かせた。ユダヤ国を攪乱《かくらん》するおそれによってその愛国者を怒らせた。では彼は何をしたか。彼はその無上愛によって三世にわたっての人類を自己の内に摂取してしまった。それだけが彼の已《や》むに已まれぬ事業だったのだ。彼が与えて与えてやまなかった事実は、彼が如何に個性の拡充に満足し、自己に与えることを喜びとしたかを証拠立てるものである。「汝《なんじ》自身の如く隣人を愛せよ」といったのは彼ではなかったか。彼は確かに自己を愛するその法悦をしみじみと知っていた最上一人ということが出来る。彼に若し、その愛によって衆生《しゅじょう》を摂取し尽したという意識がなかったなら、どうしてあの目前の生活の破壊にのみ囲まれて晏如《あんじょ》たることが出来よう。そして彼は「汝等もまた我にならえ」といっている。それはこの境界《きょうがい》が基督自身のものではなく、私達凡下の衆もまた同じ道を歩み得ることを、彼自身が証言してくれたのだ。
 やがて基督が肉体的に滅びねばならぬ時が来た。彼は苦しんだ。それに何の不思議があろう。彼は自分の愛の対象を、眼もて見、耳もて聞き、手もて触れ得なくなるのを苦しんだに違いない。又彼の愛の対象が、彼ほどに愛の力を理解し得ないのを苦しんだに違いない。然し最も彼を苦しめたものは、彼の愛がその掠奪の事業を完全に成就したか否かを迷った瞬間にあったであろう。然し遂に最後の安心は来た「父よ(父よは愛よである)我れわが身を汝に委《ゆだ》ぬ」。そして本当に神々《こうごう》しく、その辛酸に痩《や》せた肉体を、最上の満足の為めに脚《あし》の下に踏み躙《にじ》った。
 基督の生涯の何処に義務があり、犠牲があるのだろう。人は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》いう、基督は有らゆるものを犠牲に供し、救世主たるの義務の故に、凡ての迫害と窮乏とを甘受し、十字架の死をさえ敢えて堪え忍んだ。だからお前達は基督の受難によって罪からあがなわれたのだ。お前達もまた彼にならって、犠牲献身の生活を送らなければならないと。私は私一個として基督が私達に遺《のこ》して行った生活をかく考えることはどうしても出来ない。基督は与えることを苦痛とするよう
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