違う。それは比べものにならぬ程|凡下《ぼんげ》の功利主義より高尚だといおうか。私にはそんな心持は通じない。高尚だといえばいう程それがうそに見える。非常に巧みな、そして狡猾《こうかつ》な仮面の下に隠れた功利主義としか思われない。物質的でないにせよ、純粋に精神的であるにせよ(そんな表面的な区別は私には本当は通用しないが、仮りにある人々の主張するような言葉|遣《づか》いにならって)、何等かの報酬が想像されている行為に何の献身ぞ、何の犠牲ぞ。若し偽善といい得べくんば、これこそ大それた忌《いま》わしい偽善ではないか。何故なら当然期待さるべき功利的な結果を、彼等は知らぬ顔に少しも功利的でないものの如くに主張するからだ。
或はいうかも知れない。愛するということは人間内部の至上命令だ。愛する時人は水が低きに流れるが如く愛する。そこには何等報酬の予想などはない。その結果がどうであろうとも愛する者は愛するのだ。これを以てかの報酬を目的にして行為を起す功利主義者と同一視するのは、人の心の絶妙の働きを知らぬものだと。私はそれを詭弁《きべん》だと思う。一度愛した経験を有するものは、愛した結果が何んであるかを知っている、それは不可避的に何等かの意味の獲得だ。一度この経験を有《も》ったものは、再び自分の心の働きを利他主義などとは呼ばない筈《はず》だ。他に殉ずる心などとはいわない筈だ。そういうことはあまり勿体《もったい》ないことである。
愛は自己への獲得である。愛は惜みなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが、不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている。ダンテが少年の時ビヤトリスを見て、世の常ならぬ愛を経験した。その後彼は長くビヤトリスを見ることがなかった。そしてただ一度あった。それはフロレンスの街上に於てだった。ビヤトリスは一人の女|伴《づ》れと共に紅い花をもっていた。そしてダンテの挨拶《あいさつ》に対してしとやかな会釈を返してくれた。その後ビヤトリスは他に嫁《とつ》いだ。ダンテはその婚姻の席に列《つらな》って激情のあまり卒倒した。ダンテはその時以後彼の心の奥の愛人を見ることがなかった。そしてビヤトリスは凡ての美しいものの運命に似合わしく、若くしてこの世を去った。文献によればビヤトリスは切なるダンテの熱愛に触れることなくして世を終ったらしい。ダンテの愛はビヤトリスと相互的に通い合わなかった(愛は相互的にのみ成り立つとのみ考える人はここに注意してほしい)。ダンテだけが、秘めた心の中に彼女を愛した。しかも彼は空《むな》しかったか。ダンテはいかにビヤトリスから奪ったことぞ。彼は一生の間ビヤトリスを浪費してなお余る程この愛人から奪っていたではないか。彼の生活は寂しかった。※[#「骨+亢」、第4水準2−93−7]※[#「骨+葬」、第4水準2−93−15]《こうそう》であった。然しながら強く愛したことのない人々の淋しさと比べて見たならばそれは何という相違だろう。ダンテはその愛の獲得の飽満さを自分一人では抱えきれずに、「新生」として「神曲」として心外に吐き出した。私達はダンテのこの飽満からの余剰にいかに多くの価値を置くことぞ。ホイットマンも嘗《かつ》てその可憐《かれん》な即興詩の中に「自分は嘗て愛した。その愛は酬いられなかった。私の愛は無益に終ったろうか。否。私はそれによって詩を生んだ」と歌っている。
見よ、愛がいかに奪うかを。愛は個性の飽満と自由とを成就することにのみ全力を尽しているのだ。愛は嘗て義務を知らない。犠牲を知らない。献身を知らない。奪われるものが奪われることをゆるしつつあろうともあるまいとも、それらに煩《わずら》わされることなく愛は奪う。若し愛が相互的に働く場合には、私達は争って互に互を奪い合う。決して与え合うのではない。その結果、私達は互に何物をも失うことがなく互に獲得する。人が通常いう愛するものは二倍の恵みを得るとはこれをいうのだ。私は予期するとおりの獲得に対して歓喜し、有頂天になる。そして明かにその獲得に対して感激し感謝する。その感激と感謝とは偽善でも何でもない。あるべかりしものがあったについての人の有し得るおのずからの情である。愛の感激……正しくいうとこの外に私の生命はない。私は明かに他を愛することによって、凡てを自己に取り入れているのを承認する。若し人が私を利己主義者と呼ぼうとならば、私はそう呼ばれるのを妨げない。若し必要ならば愛他的利己主義者と呼んでもかまわない。苟《いやしく》も私が自発的に愛した場合なら、私は必ず自分に奪っているのを知っているからだ。
この求心的な容赦なき愛の作用こそは、凡ての生物を互に結び付けさせた因子ではないか。野獣を見よ、如何《いか》に彼等の愛の作用(相奪う状)が端的に現われて
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