呑《の》まれて消え失せてしまう。人間の本能的生活の中にも屡※[#二の字点、1−2−22]かかる現象は起らないだろうか。或る人が純粋に本能的の動向によって動く時、誤って本能そのものの歩みよりも更に急ごうとする。そして遂に本能の主潮から逸して、自滅に導く迷路の上を驀地《まっしぐら》に馳《は》せ進む。そして遂に何者でもあらぬべく消え去ってしまう。それは悲壮な自己矛盾である。彼の創造的動向が彼を空《むな》しく自滅せしめる。智的生活の世界からこれを眺《なが》めると、一つの愚かな蹉跌《さてつ》として眼に映ずるかも知れない。たしかに合理的ではない。又かかる現象が智的生活の渦中に発見された場合には道徳的ではない。然しその生活を生活した当体《とうたい》なる一つの個性に取っては、善悪、合理非合理の閑葛藤《かんかっとう》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さしはさ》むべき余地はない。かくばかり緊張した生活が、自己満足を以て生活された、それがあるばかりだ。智的生活を基調として生活し、その生活の基準に慣らされた私達は動※[#二の字点、1−2−22]《やや》もするとこの基準のみを以て凡ての現象を理智的に眺めていはしないか。そして智的生活を一歩踏み出したところに、更に緊張した純真な生活が伏在するのを見落すようなことはないか。若しそうした態度にあるならば、それはゆゆしき誤謬といわねばならぬ。人間の創造的生活はその瞬間に停止してしまうからだ。この本能的に対しておぼろげながらも推察の出来ない社会は、豚の如く健全な社会だといい得る外の何物でもあり得ない。
自由なる創造の世界は遊戯の世界であり、趣味の世界であり、無目的の世界である。努力を必要としないが故に遊戯と云ったのである。義務を必要としないが故に趣味といったのである。生活そのものが目的に達する手段ではないが故に無目的といったのである。緩慢な、回顧的な生活にのみ囲繞《いにょう》されている地上の生活に於て、私はその最も純粋に近い現われを、相愛の極、健全な愛人の間に結ばれる抱擁に於て見出《みい》だすことが出来ると思う。彼等の床に近づく前に道徳知識の世界は影を隠してしまう。二人の男女は全く愛の本能の化身《けしん》となる。その時彼等は彼等の隣人を顧みない、彼等の生死を慮《おもんぱか》らない。二人は単に愛のしるしを与える
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