中にある。だから一層正しくいえば、根柢的《こんていてき》な人間の生活は自由なる意志によって導かれ得るのだ。
 同時に本能の生活には道徳はない。従って努力はない。この生活は必至的に自由な生活である。必至には二つの道はない。二つの道のない所には善悪の選択はない。故にそれは道徳を超越する。自由は sein であって sollen ではない。二つの道の間に選ぶためにこそ努力は必要とせられるけれども、唯|一筋道《ひとすじみち》を自由に押し進むところに何の努力の助力が要求されよう。
 私は創造の為めに遊戯する。私は努力しない。従って努力に成功することも、失敗することもない。成功するにつけて、運命に対して謙遜《けんそん》である必要はない。又失敗するにつけて運命を顧みて弁疏《べんそ》させる必要もない。凡ての責任は――若しそれを強《し》いて言うならば――私の中にある。凡ての報償は私の中にある。
 例えばここに或る田園がある。その中には田疇《でんちゅう》と、山林と、道路と、家屋とが散在して、人々は各※[#二の字点、1−2−22]その或る部分を私有し、田園の整理と平安とに勤《いそし》んでいる。他人の畑を収穫するものは罪に問われる。道路を歩まないで山林を徘徊《はいかい》するものは警戒される。それはそうあるべきことだ。何故といえば、畑はその所有者の生計のために存在し、道路は旅人の交通のために設けられているのだから。それは私に智的生活の鳥瞰図《ちょうかんず》を開展する。ここに人がある。彼はその田園の外に拡がる未踏の地を探険すべき衝動を感じた。彼は田園を踏み出して、その荒原に足を入れた。そこには彼の踏み進むべき道路はない。又|掠奪《りゃくだつ》すべき作物はない。誰がその時彼の踏み出した脚《あし》の一歩について尤《とが》めだてをする事が出来るか。彼が自ら奮って一歩を未知の世界に踏み出した事それ自身が善といえば善だ。彼の脚は道徳の世界ならざる世界を踏んでいるのだ。それは私に本能的生活の面影を微《かす》かながら髣髴《ほうふつ》させる。
 黒雲を劈《つんざ》いて天の一角から一角に流れて行く電光の姿はまた私に本能の奔流の力強さと鋭さを考えさせる。力ある弧状を描いて走るその電光のここかしこに本流から分岐して大樹の枝のように目的点に星馳《せいち》する支流を見ることがあるだろう。あの支流の末は往々にして、黒雲に
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