ものも、人の実在と称えるものも、畢竟《ひっきょう》は意識の――それ自身が仮象であるところの――仮初《かりそ》めな遊戯に過ぎないと傍観する。そこに何等かの執着をつなぎ、葛藤を加えるのは、要するに下根|粗笨《そほん》な外面的見断に支配されての迷妄に過ぎない。それらの境を静かに超越して、嬰児の戯れを見る老翁のように凡《すべ》ての努力と蹉跌《さてつ》との上に、淋しい微笑を送ろうとする。そこには冷やかな、然し皮相でない上品さが漂っている。或は又凡てを容《い》れ凡てを抱いて、飽くまで外界の跳梁《ちょうりょう》に身を任かす。昼には歓楽、夜には遊興、身を凡俗非議の外に置いて、死にまでその恣《ほしいま》まな姿を変えない人もある。そこには皮肉な、然し熱烈な聡明が窺《うかが》われないではない。私はどうしてそれらの人を弾劾《だんがい》することが出来よう。果てしのない迷執にさまよわねばならぬ人の宿命であって見れば、各※[#二の字点、1−2−22]の瞬間をただ楽しんで生きる外に残される何事があろうぞとその人達はいう。その心持に対して私は白眼を向けることが出来るか。私には出来ない。人は或はかくの如き人々を酔生夢死の徒と呼んで唾棄《だき》するかも知れない。然し私にはその人々の何処《どこ》かに私を牽《ひ》き付ける或るものが感ぜられる。私には生来持ち合わしていない或る上品さ、或る聡明さが窺われるからだ。
何という多趣多様な生活の相だろう。それはそのままで尊いではないか。そのままで完全な自然な姿を見せているではないか。若し自然にあの絢爛《けんらん》な多種多様があり、独《ひと》り人間界にそれがなかったならば、宇宙の美と真とはその時に崩れるといってもいいだろう。主義者といわれる人の心を私はこの点に於てさびしく物足らなく思う。彼は自分が授かっただけの天分を提《ひっさ》げて人間全体をただ一つの色に塗りつぶそうとする人ではないか。その意気の尊さはいうまでもない。然しその尊さの蔭には尊さそのものをも冰《こお》らせるような淋しさが潜んでいる。
ただ私は私自身を私に恰好《かっこう》なように守って行きたい。それだけは私に許される事だと思うのだ。そしてその立場からいうと私はかの聡明にして上品な人々と同情の人であることが出来ない。私にはまださもしい未練が残っていて、凡てを仮象の戯れだと見て心を安んじていることが出来ない。
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