うには悟った。然し私のようには悟らなかった。それが一体何になろう。これほど体裁のいい外貌《がいぼう》と、内容の空虚な実質とを併合した心の状態が外にあろうか。この近道らしい迷路を避けなければならないと知ったのは、長い彷徨《ほうこう》を続けた後のことだった。それを知った後でも、私はややもすればこの忌《いま》わしい袋小路につきあたって、すごすごと引き返さねばならなかった。
 私は自分の個性がどんなものであるかを知りたいために、他人の個性に触れて見ようとした。歴史の中にそれを見出そうと勉めたり、芸術の中にそれを見出そうと試みたり、隣人の中にそれを見出そうと求めたりした。私は多少の知識は得たに違いなかった。私の個性の輪廓は、おぼろげながら私の眼に映るように思えぬではなかった。然しそれは結局私ではなかった。
 物を見る事、物をそれ自身の生命に於てあやまたず捕捉する事、それは私が考えていたように容易なことではない。それを成就し得た人こそは世に類《たぐい》なく幸福な人だ。私は見ようと欲しないではなかった。然し見るということの本当の意味を弁《わきま》えていたといえようか。掴《つか》み得たと思うものが暫《しばら》くするといつの間にか影法師に過ぎぬのを発見するのは苦《にが》い味だ。私は自分の心を沙漠《さばく》の砂の中に眼だけを埋めて、猟人から己れの姿を隠し終《おお》せたと信ずる駝鳥《だちょう》のようにも思う。駝鳥が一つの機能の働きだけを隠すことによって、全体を隠し得たと思いこむのと反対に、私は一つの機能だけを働かすことによって、私の全体を働かしていると信ずることが屡※[#二の字点、1−2−22]ある。こうして眺《なが》められた私の個性は、整った矛盾のない姿を私に描いて見せてくれるようだけれども、見ている中にそこには何等の生命もないことが明かになって来る。それは感激なくして書かれた詩のようだ。又着る人もなく裁《た》たれた錦繍《きんしゅう》のようだ。美しくとも、価高くあがなわれても、有りながら有る甲斐《かい》のない塵芥《じんかい》に過ぎない。
 私が私自身に帰ろうとして、外界を機縁にして私の当体《とうたい》を築き上げようとした試みは、空《むな》しい失敗に終らねばならなかった。
 聡明にして上品な人は屡※[#二の字点、1−2−22]仮象に満足する。満足するというよりは、人の現象と称《とな》える
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