い耽溺《たんでき》の過去を持った私を寂しく思わせないではない。然しそれにもかかわらず私は行かざるを得ない。
この男女関係の狂いから当然帰納されることは、現在の文化が男女両性の協力によって成り立つものではないという事だ。現時の文化は大は政治の大から小は手桶《ておけ》の小に至るまで悉《ことごと》く男子の天才によって作り上げられたものだといっていい。男性はその凡ての機関の恰好な使用者であるけれども、女性がそれに与《あず》かるためには、或る程度まで男性化するにあらざれば与かることが出来ない。男性は巧みにも女性を家族生活の片隅《かたすみ》に祭りこんでしまった。しかも家族生活にあっても、その大権は確実に男性に握られている。家族に供する日常の食膳と、衣服とは女性が作り出すことが出来よう。然しながら饗応《きょうおう》の塩梅《あんばい》と、晴れの場の衣裳とは、遂に男性の手によってのみ巧みに作られ得る。それは女性に能力がないというよりは、それらのものが凡《すべ》てその根柢《こんてい》に於て男性の嗜好《しこう》を満足するように作られているが故に、それを産出するのもまたおのずから男性の手によってなされるのを適当とするだけのことだ。
地球の表面には殆んど同数の男女が生きている。そしてその文化が男性の欲求にのみ適合して成り立つとしたら、それが如何に不完全な内容を持ったものであるかが直ちに看取されるだろう。
女性が今の文化生活に与ろうとする要求を私は無下《むげ》に斥《しりぞ》けようとする者ではない。それは然しその成就が完全な女性の独立とはなり得ないということを私は申し出したい。若し女性が今の文化の制度を肯定して、全然それに順応することが出来たとしても、それは女性が男性の嗜好に降伏して自分達自らを男性化し得たという結果になるに過ぎない。それは女性の独立ではなく、女性の降伏だ。
唯《ただ》外面的にでも女性が自ら動くことの出来る余地を造っておいて、その上で女性の真要求を尋ね出す手段としてならば、私は女権運動を承認する。
それにも増して私が女性に望むところは、女性が力を合せて女性の中から女性的天才を生み出さんことだ。男性から真に解放された女性の眼を以て、現在の文化を見直してくれる女性の出現を祈らんことだ。女性の要求から創り出された文化が、これまでの文化と同一内容を持つだろうか、持たぬだろうか、
前へ
次へ
全87ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング