務だ。被治者の所有するところのものは治者の所有せざるものだ。治者と被治者とは異った原素から成り立っている。かしこには治者の生活があり、ここには被治者の生活がある。生活そのものにかかる二元的分離はあるべき事なのか。とにもかくにも本能の生活にはかかる分離はない。石の有する本能の方向に有機物は生じた。有機物の有する本能の方向に諸生物は生じた。諸生物の本能の有する方向に人間は生じた。人間の有する本能の方向に本能そのものは動いて行く。凡てが自己への獲得だ。その間に一つの断層もない。百八十度角の方向転換はない。
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今のような人間の進化の程度にあっては、智的生活の棄却は恐らく人間生活そのものの崩壊であるであろう。然しながら、その故を以て本能的生活の危険を説き、圧抑を主張するものがあるとすれば、それは又自己と人類とを自滅に導こうとするものだといわれなければならぬ。この問題を私がこのように抽象的に申し出ると異存のある人はないようだ。けれども仮りにニイチェ一人を持ち出して来ると、その超人の哲学は忽《たちま》ち四方からの非難攻撃に遭《あ》わねばならぬのだ。
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権力と輿論《よろん》とは智的生活の所産である。権威と独創とは本能的生活の所産である。そして現世では、いつでも前者が後者を圧倒する。
釈迦《しゃか》は竜樹《りゅうじゅ》によって、基督は保羅《ポーロ》によって、孔子は朱子によって、凡てその愛の宝座から智慧《ちえ》と聖徳との座にまで引きずりおろされた。
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愛を優しい力と見くびったところから生活の誤謬《ごびゅう》は始まる。
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女は持つ愛はあらわだけれども小さい。男の持つ愛は大きいけれども遮《さえぎ》られている。そして大きい愛は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》あらわな愛に打負かされる。
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ダヴィンチは「知ることが愛することだ」といった。愛することが知ることだ。
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人の生活の必至最極の要求は自己の完成である。社会を完成することが自己の完成であり、自己の完成がやがて社会の完成となるという如きは、現象の輪廻《りんね》相を説明したにとどまって、要求そのものをいい現わした言葉ではない。
自己完成の要求が誤って自己の一局部のそれに向けられた瞬間に、自己完成の道は跡方もなく
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