elf, and I live a bird)“I live a bird”……英語にはこの適切な愛の発想法がある。若しこの表現をうなずく人があったら、その人は確かに私の意味しようとするところをうなずいてくれるだろう。私は小鳥を生きるのだ。だから私は美しい籠と、新鮮な食餌と、やむ時なき愛撫とを外物に恵み与えた覚えはない。私は明かにそれらのものを私自身に与えているのだ。私は小鳥とその所有物の凡《すべ》てを残すところなく外界から私の個性へ奪い取っているのだ。見よ愛は放射するエネルギーでもなければ与える本能でもない。愛は掠奪《りゃくだつ》する烈《はげ》しい力だ。与えると見るのは、愛者被愛者に直接の交渉のない第三者が、愛するものの愛の表現を極めて外面的に観察した時の結論に過ぎないのを知るだろう。
 かくて愛の本能に従って、私は他を私の中に同化し、他に愛せらるることによって、私は他の中に投入し、私と他とは巻絹《まきぎぬ》の経緯の如く、そこにおのずから美しい生活の紋様を織りなして行くのだ。私の個性がよりよく、より深くなり行くに従って、よりよき外界はより深く私の個性の中に取り込まれる。生活全体の実績はかくの如くして始めて成就する。そこには犠牲もない。又義務もない。唯感謝すべき特権と、ほほ笑ましい飽満とがあるばかりだ。

        一七

 目を挙げて見るもの、それは凡《すべ》てが神秘である。私の心が平生の立場からふと視角をかえている時、私の目前に開かれるものはただ驚異すべき神秘があるばかりだ。然《しか》しながら現実の世界に執着を置き切った私には、かかる神秘は神秘でありながらあたり前の事実だ。私は小児のように常に驚異の眼を見張っていることは出来なくなった。その現実的な、散文的な私にも、愛の働きのみは近づきがたき神秘な現われとして感ぜられる。
 愛は私の個性を哺《はぐ》くむために外界から奪い取って来る。けれどもその為めに外界は寸毫《すんごう》も失われることがない。例えば私は愛によってカナリヤを私の衷《うち》に奪い取る。けれどもカナリヤは奪わるることによって幸福にはなるとも不幸福にはならない。かの小鳥は少くとも物質的に美しい籠《かご》(それは醜い籠にあるよりも確かにいいことだろう)と新鮮な食餌とを以《もっ》て富ませられる。物質の法則を超越したこの神秘は私を存分に驚かせ感傷的にさえ
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