んしゃく》に昼間の疲労を存分に発して、目をとろんこ[#「とろんこ」に傍点]にした君の父上が、まず囲炉裏のそばに床をとらして横になる。やがて兄上と嫂《あによめ》とが次の部屋《へや》に退くと、囲炉裏のそばには、君と君の妹だけが残るのだ。
時が静かにさびしく、しかしむつまじくじりじりと過ぎて行く。
「寝ずに」
針の手をやめて、君の妹はおとなしく顔を上げながら君に言う。
「先に寝れ、いいから」
あぐらのひざの上にスケッチ帳を広げて、と見こう見している君は、振り向きもせずに、ぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にそう答える。
「朝げにまた眠いとってこづき起こされべえに」にっ[#「にっ」に傍点]と片頬《かたほお》に笑《え》みをたたえて妹は君にいたずららしい目を向ける。
「なんの」
「なんのでねえよ、そんだもの見こくってなんのたしになるべえさ。みんなよって笑っとるでねえか、※[#「※」は「ひとやね+サ」、75−9]《やまさ》の兄《あん》さんこと暇さえあれば見ったくもない絵べえかいて、なんするだべって」
君は思わず顔をあげる。
「だれが言った」
「だれって‥‥みんな言ってるだよ」
「お前もか」
「私は言わねえ」
「そうだべさ。それならそれでいいでねえか。わけのわかんねえやつさなんとでも言わせておけばいいだ。これを見たか」
「見たよ。‥‥荘園《しょうえん》の裏から見た所だなあそれは。山はわし気に入ったども、雲が黒すぎるでねえか」
「さし出口はおけやい」
そして君たち二人は顔を見合って溶けるように笑《え》みかわす。寒さはしんしんと背骨まで徹《とお》って、戸外には風の落ちた空を黙って雪が降り積んでいるらしい。
今度は君が発意する。
「おい寝べえ」
「兄《あん》さん先に寝なよ」
「お前寝べし‥‥あしたまた一番に起きるだから‥‥戸締まりはおらがするに」
二人はわざと意趣《いしゅ》に争ってから、妹はとうとう先に寝る事にする。君はなお半時間ほどスケッチに見入っていたが、寒さにこらえ切れなくなってやがて身を起こすと、藁草履《わらぞうり》を引っかけて土間に降り立ち、竈《かまど》の火もとを充分に見届け、漁具の整頓《せいとん》を一わたり注意し、入り口の戸に錠前をおろし、雪の吹きこまぬよう窓のすきまをしっかり[#「しっかり」に傍点]と閉じ、そしてまた囲炉裏座に帰って見ると、ちょろちょろと燃えかすれた根粗朶《ねそだ》の火におぼろに照らされて、君の父上と妹とが炉縁《ろぶち》の二方に寝くるまっているのが物さびしくながめられる。一日一日生命の力から遠ざかって行く老人と、若々しい生命の力に悩まされているとさえ見える妹の寝顔は、明滅する炎の前に幻のような不思議な姿を描き出す。この老人の老い先をどんな運命が待っているのだろう。この処女《おとめ》の行く末をどんな運命が待っているのだろう。未来はすべて暗い。そこではどんな事でも起こりうる。君は二人の寝顔を見つめながらつくづくとそう思った。そう思うにつけて、その人たちの行く末については、素直な心で幸《さち》あれかしと祈るほかはなかった。人の力というものがこんな厳粛な瞬間にはいちばんたよりなく思われる。
君はスケッチ帳を枕《まくら》もとに引きよせて、垢《あか》じみた床の中にそのままもぐり込みながら、氷のような布団《ふとん》の冷たさがからだの温《ぬく》みで暖まるまで、まじまじと目を見開いて、君の妹の寝顔を、憐《あわ》れみとも愛ともつかぬ涙ぐましい心持ちでながめつづける。それは君が妹に対して幼少の時から何かのおりに必ずいだくなつかしい感情だった。
それもやがて疲労の夢が押し包む。
今岩内の町に目ざめているものは、おそらく朝寝坊のできる富んだ惰《なま》け者と、灯台守《とうだいも》りと犬ぐらいのものだろう。夜は寒くさびしくふけて行く。
八
君、君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるという事から許してくれるだろうか。私の想像はあとからあとからと引き続いてわいて来る。それがあたっていようがあたっていまいが、君は私がこうして筆取るそのもくろみに悪意のない事だけは信じてくれるだろう。そして無邪気な微笑をもって、私の唯一の生命である空想が勝手次第に育って行くのを見守っていてくれるだろう。私はそれをたよってさらに書き続けて行く。
鰊《にしん》の漁期――それは北方に住む人の胸にのみしみじみ[#「しみじみ」に傍点]と感ぜられるなつかしい季節の一つだ。この季節になると長く地の上を領していた冬が老いる。――北風も、雪も、囲炉裏も、綿入れも、雪鞋《つまご》も、等しく老いる。一片の雲のたたずまいにも、自然のもくろみと予言とを人一倍鋭敏に見て取る漁夫たちの目には、朝夕の空の模様が春めいて来た事をまざまざと思わせる。北西の風が東に回るにつれて、単色に堅く凍りついていた雲が、蒸されるようにもやもやとくずれ出して、淡いながら暖かい色の晴れ雲に変わって行く。朝から風もなく晴れ渡った午後なぞに波打ちぎわに出て見ると、やや緑色を帯びた青空のはるか遠くの地平線高く、幔幕《まんまく》を真一文字に張ったような雪雲の堆積《たいせき》に日がさして、まんべんなくばら色に輝いている。なんという美妙な美しい色だ。冬はあすこまで遠のいて行ったのだ。そう思うと、不幸を突き抜けて幸福に出あった人のみが感ずる、あの過去に対する寛大な思い出が、ゆるやかに浜に立つ人の胸に流れこむ。五か月の長い厳冬を牛のように忍耐強く辛抱しぬいた北人の心に、もう少しでひねくれた根性にさえなり兼ねた北人の心に、春の約束がほのぼのと恵み深く響き始める。
朝晩の凍《し》み方はたいして冬と変わりはない。ぬれた金物がべたべたと糊《のり》のように指先に粘りつく事は珍しくない。けれども日が高くなると、さすがにどこか寒さにひび[#「ひび」に傍点]がいる。浜べは急に景気づいて、納屋の中からは大釜《おおがま》や締框《しめわく》がかつぎ出され、ホック船やワク船をつと[#「つと」に傍点]のようにおおうていた蓆《むしろ》が取りのけられ、旅烏《たびがらす》といっしょに集まって来た漁夫たちが、綾《あや》を織るように雪の解けた砂浜を行き違って目まぐるしい活気を見せ始める。
鱈《たら》の漁獲がひとまず終わって、鰊《にしん》の先駆《はしり》もまだ群来《くけ》て来ない。海に出て働く人たちはこの間に少しの間《ま》息をつく暇を見いだすのだ。冬の間から一心にねらっていたこの暇に、君はある日朝からふいと家を出る。もちろんふところの中には手慣れたスケッチ帳と一本の鉛筆とを潜まして。
家を出ると往来には漁夫たちや、女でめん[#「でめん」に傍点](女労働者)や、海産物の仲買いといったような人々がにぎやかに浮き浮きして行ったり来たりしている。根雪が氷のように磐《いわ》になって、その上を雪解けの水が、一冬の塵埃《じんあい》に染まって、泥炭地《でいたんち》のわき水のような色でどぶどぶと漂っている。馬橇《ばそり》に材木のように大きな生々しい薪《まき》をしこたま[#「しこたま」に傍点]積み載せて、その悪路を引っぱって来た一人の年配な内儀《かみ》さんは、君を認めると、引き綱をゆるめて腰を延ばしながら、戯れた調子で大きな声をかける。
「はれ兄《あん》さんもう浜さいくだね」
「うんにゃ」
「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にする人《ふと》が暇さえあれば山さ突っぱしるだから怪体《けたい》だあてばさ。いい人でもいるだんべさ。は、は、は、‥‥。うんすら妬《や》いてこすに、一押し手を貸すもんだよ」
「口はばったい事べ言うと鰊様《にしんさま》が群来《くけ》てはくんねえぞ。おかしな婆様《ばさま》よなあお前も」
「婆様だ!?[#「!?」は横一列、第3水準1−8−78、79−13] 人聞《ふとぎ》きの悪い事べ言わねえもんだ。人様《ふとさま》が笑うでねえか」
実際この内儀さんの噪《はしゃ》いだ雑言《ぞうごん》には往来の人たちがおもしろがって笑っている。君は当惑して、橇《そり》の後ろに回って三四間ぐんぐん押してやらなければならなかった。
「そだ。そだ。兄《あん》さんいい力だ。浜まで押してくれたらおらお前に惚《ほ》れこすに」
君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にどっ[#「どっ」に傍点]と笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまただれかに話しかける大声がのびやかに聞こえて来る。
「春が来るのだ」
君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。
やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅうあき屋になっていた西洋風の二階建ての雨戸が繰りあけられて、札幌《さっぽろ》のある大きなデパートメント・ストアの臨時出店が開かれようとしている。藁屑《わらくず》や新聞紙のはみ出た大きな木箱が幾個か店先にほうり出されて、広告のけばけばしい色旗が、活動小屋の前のように立てならべてある。そして気のきいた手代が十人近くも忙《いそが》しそうに働いている。君はこの大きな臨時の店が、岩内じゅうの小売り商人にどれほどの打撃であるかを考えながら、自分たちの漁獲が、資本のないために、ほかの土地から投資された海産物製造会社によって捨て値で買い取られる無念さをも思わないではいられなかった。「大きな手にはつかまれる」‥‥そう思いながら君はその店の角《かど》を曲がって割合にさびれた横町にそれた。
その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それにつづいて小さな調剤所がしつらえてあった。君はそこのガラス窓から中をのぞいて見る。ずらっとならべた薬種びんの下の調剤卓の前に、もたれのない抉《く》り抜《ぬ》きの事務椅子《じむいす》に腰かけて、黒い事務マントを羽織った悒鬱《ゆううつ》そうな小柄な若い男が、一心に小形の書物に読みふけっている。それはKと言って、君が岩内の町に持っているただ一人の心の友だ。君はくすんだガラス板に指先を持って行ってほとほととたたく。Kは機敏に書物から目をあげてこちらを振りかえる。そして驚いたように座を立って来てガラス障子をあける。
「どこに」
君は黙ったまま懐中からスケッチ帳を取り出して見せる。そして二人は互いに理解するようにほほえみかわす。
「君はきょうは出られまい」
君は東京の遊学時代を記念するために、だいじにとっておいた書生の言葉を使えるのが、この友だちに会う時の一つの楽しみだった。
「だめだ。このごろは漁夫で岩内の人数が急にふえたせいか忙《せわ》しい。しかし今はまだ寒いだろう。手が自由に動くまい」
「なに、絵はかけずとも山を見ていればそれでいいだ。久しく出て見ないから」
「僕は今これを読んでいたが(と言ってKはミケランジェロの書簡集を君の目の前にさし出して見せた)すばらしいもんだ。こうしていてはいけないような気がするよ。だけどもとても及びもつかない。いいかげんな芸術家というものになって納まっているより、この薄暗い薬局で、黙りこくって一生を送るほうがやはり僕には似合わしいようだ」
そう言って君の友は、悒鬱《ゆううつ》な小柄な顔をひときわ悒鬱にした。君は励ます言葉も慰める言葉も知らなかった。そして心とがめするもののようにスケッチ帳をふところに納めてしまった。
「じゃ行って来るよ」
「そうかい。そんなら帰りには寄って話して行きたまえ」
この言葉を取りかわして、君はその薄よごれたガラス窓から離れる。
南へ南へと道を取って行くと、節婦橋という小さな木橋があって、そこから先にはもう家並みは続いていない。溝泥《どぶどろ》をこね返したような雪道はだんだんきれいになって行って、地面に近い所が水になってしまった積雪の中に、君の古い兵隊長靴《へいたいながぐつ》はややともするとすぽりすぽり[#「すぽりすぽり」に傍点]と踏み込んだ。
雪におおわれた野は雷電峠のふもとのほうへ爪先上《つ
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