する。
 「なんというだらし[#「だらし」に傍点]のない二重生活だ。おれはいったいおれに与えられた運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。それだのにまだちっぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねていると見える。おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。もちろんおれに絵のかき方を教えてくれた人もなければ、おれの絵を見てくれる人もない。岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。Kの言葉はいつでもおれを励まし鞭《むち》うってくれる。しかしおれはいつでもそのあとに、うぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。どうすればこの二重生活を突き抜ける事ができるのだろう。生まれから言っても、今までの運命から言っても、おれは漁夫で一生を終えるのが相当しているらしい。Kもあの気むずかしい父のもとで調剤師で一生を送る決心を悲しくもしてしまったらしい。おれから見るとKこそは立派な文学者になれそうな男だけれども、Kは誇張なく自分の運命をあきらめている。悲しくもあきらめている。待てよ、悲しいというのはほんとうはKの事ではない。そう思っているおれ自身の事だ。おれはほんとうに悲しい男だ。親父《おやじ》にも済まない。兄や妹にも済まない。この一生をどんなふうに過ごしたらおれはほんとうにおれらしい生き方ができるのだろう」
 そこに居ならんだ漁夫たちの間に、どっしり[#「どっしり」に傍点]と男らしいがんじょうなあぐらを組みながら、君は彼らとは全く異邦の人のようなさびしい心持ちになって、こんなことを思いつづける。
 やがて漁夫たちはそこらを片付けてやおら立ち上がると、胴の間に降り積んだ雪を摘まんで、手のひらで擦《こす》り合わせて、指に粘りついた飯粒を落とした。そして配縄《はいなわ》の引き上げにかかった。
 西に舂《うすず》きだすと日あしはどんどん歩みを早める。おまけに上のほうからたるみなく吹き落として来る風に、海面は妙に弾力を持った凪《な》ぎ方をして、その上を霰《あられ》まじりの粉雪がさーっと来ては過ぎ、過ぎては来る。君たちは手袋を脱ぎ去った手をまっかにしながら、氷点以下の水でぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]ぬれた配縄をその一端からたぐり上げ始める。三間四間置きぐらいに、目の下二尺もあるような鱈《たら》がぴちぴちはねながら引き上げられて来る。
 三十町に余るくらいな配縄をすっかりたくしこんでしまうころには、海の上は少し墨汁《ぼくじゅう》を加えた牛乳のようにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]暮れ残って、そこらにながめやられる漁船のあるものは、帆を張り上げて港を目ざしていたり、あるものはさびしい掛け声をなお海の上に響かせて、忙《せわ》しく配縄《はいなわ》を上げているのもある。夕暮れに海上に点々と浮かんだ小船を見渡すのは悲しいものだ。そこには人間の生活がそのはかない末梢《まっしょう》をさびしくさらしているのだ。
 君たちの船は、海風が凪《な》ぎて陸風に変わらないうちにと帆を立て、艪《ろ》を押して陸地を目がける。晴れては曇る雪時雨《ゆきしぐれ》の間に、岩内《いわない》の後ろにそびえる山々が、高いのから先に、水平線上に現われ出る。船歌をうたいつれながら、漁夫たちは見慣れた山々の頂をつなぎ合わせて、港のありかをそれとおぼろげながら見定める。そこには妻や母や娘らが、寒い浜風に吹きさらされながら、うわさとりどりに汀《みぎわ》に立って君たちの帰りを待ちわびているのだ。
 これも牛乳のような色の寒い夕靄《ゆうもや》に包まれた雷電峠の突角がいかつく大きく見えだすと、防波堤の突先《とっさき》にある灯台の灯《ひ》が明滅して船路を照らし始める。毎日の事ではあるけれども、それを見ると、君と言わず人々の胸の中には、きょうもまず命は無事だったという底深い喜びがひとりでにわき出して来て、陸に対する不思議なノスタルジヤが感ぜられる。漁夫たちの船歌は一段と勇ましくなって、君の父上は船の艫《とも》に漁獲を知らせる旗を揚げる。その旗がばたばたと風にあおられて音を立てる――その音がいい。
 だんだん間近になった岩内の町は、黄色い街灯の灯《ひ》のほかには、まだ灯火もともさずに黒くさびしく横たわっている。雪のむら消えた砂浜には、けさと同様に女たちがかしこここにいくつかの固い群れになって、石ころのようにこちん[#「こちん」に傍点]と立っている。白波がかすかな潮の香と音とをたてて、その足もとに行っては消え、行っては消えするのが見え渡る。
 帆がおろされた。船は海岸近くの波に激しく動揺しながら、艫を海岸のほうに向けかえてだんだんと汀《みぎわ》に近寄って行く。海産物会社の印袢天《しるしばんてん》を着たり、犬の皮か何かを裏につけた外套《がいとう》を深々と羽織ったりした男たちが、右往左往に走りまわるそのあたりを目がけて、君の兄上が手慣れたさばき[#「さばき」に傍点]でさっ[#「さっ」に傍点]と艫綱《ともづな》を投げると、それがすぐ幾十人もの男女の手で引っぱられる。船はしきりと上下する舳《へさき》に波のしぶきを食いながら、どんどん砂浜に近寄って、やがて疲れ切った魚のように黒く横たわって動かなくなる。
 漁夫たちは艪《ろ》や舵《かじ》や帆の始末を簡単にしてしまうと、舷《ふなべり》を伝わって陸におどり上がる。海産物製造会社の人夫たちは、漁夫たちと入れ替わって、船の中に猿《ましら》のように飛び込んで行く。そしてまだ死に切らない鱈《たら》の尾をつかんで、礫《こいし》のように砂の上にほうり出す。浜に待ち構えている男たちは、目にもとまらない早わざで数を数えながら、魚を畚《もっこ》の中にたたき込む。漁夫たちは吉例のように会社の数取《かずと》り人に対して何かと故障を言いたててわめく。一日ひっそりかん[#「ひっそりかん」に傍点]としていた浜も、このしばらくの間だけは、さすがににぎやかな気分になる。景気にまき込まれて、女たちの或《あ》る者まで男といっしょになってけんか腰に物を言いつのる。
 しかしこのはなばなしいにぎわいも長い間ではない。命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果は、わずか十数分の間でたわいもなく会社の人たちに処分されてしまうのだ。君が君の妹を女たちの群れの中から見つけ出して、忙《せわ》しく目を見かわし、言葉をかわす暇もなく、浜の上には乱暴に踏み荒された砂と、海藻《かいそう》と小魚とが砂まみれになって残っているばかりだ。そして会社の人夫たちはあとをも見ずにまた他の漁船のほうへ走って行く。
 こうして岩内じゅうの漁夫たちが一生懸命に捕獲して来た魚はまたたくうちにさらわれてしまって、墨のように煙突から煙を吐く怪物のような会社の製造所へと運ばれて行く。
 夕焼けもなく日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れて、雪は紫に、灯《ひ》は光なくただ赤くばかり見える初夜になる。君たちはけさのとおりに幾かたまりの黒い影になって、疲れ切った五体をめいめいの家路に運んで行く。寒気のために五臓まで締めつけられたような君たちは口をきくのさえ物惰《ものう》くてできない。女たちがはしゃいだ調子で、その日のうちに陸の上で起こったいろいろな出来事――いろいろな出来事と言っても、きわだって珍しい事やおもしろい事は一つもない――を話し立てるのを、ぶっつり[#「ぶっつり」に傍点]押し黙ったままで聞きながら歩く。しかしそれがなんという快さだろう。
 しかし君の家が近くなるにつれて妙に君の心を脅かし始めるものがある。それは近年引き続いて君の家に起こった種々な不幸がさせるわざだ。長わずらいの後に夫に先立った君の母上に始まって、君の家族の周囲には妙に死というものが執念《しゅうね》くつきまつわっているように見えた。君の兄上の初生児も取られていた。汗水が凝り固まってできたような銀行の貯金は、その銀行が不景気のあおりを食って破産したために、水の泡《あわ》になってしまった。命とかけがえの漁場が、間違った防波堤の設計のために、全然役に立たなくなったのは前にも言ったとおりだ。こらえ性《しょう》のない人々の寄り集まりなら、身代が朽ち木のようにがっくりと折れ倒れるのはありがちと言わなければならない。ただ君の家では父上といい、兄上といい、根性《こんじょう》っ骨《ぽね》の強い正直な人たちだったので、すべての激しい運命を真正面から受け取って、骨身を惜しまず働いていたから、曲がったなりにも今日今日を事欠かずに過ごしているのだ。しかし君の家を襲ったような運命の圧迫はそこいらじゅうに起こっていた。軒を並べて住みなしていると、どこの家にもそれ相当な生計が立てられているようだけれども、一軒一軒に立ち入ってみると、このごろの岩内の町には鼻を酸《す》くしなければならないような事がそこいらじゅうにまくしあがっていた。ある家は目に立って零落していた。あらしに吹きちぎられた屋根板が、いつまでもそのままで雨の漏れるに任せた所も少なくない。目鼻立ちのそろった年ごろの娘が、嫁入ったといううわさもなく姿を消してしまう家もあった。立派に家框《いえがまち》が立ち直ったと思うとその家は代が替わったりしていた。そろそろと地の中に引きこまれて行くような薄気味の悪い零落の兆候が町全体にどことなく漂っているのだ。
 人々は暗々裏にそれに脅かされている。いつどんな事がまくし上がるかもしれない――そういう不安は絶えず君たちの心を重苦しく押しつけた。家から火事を出すとか、家から出さないまでも類焼の災難にあうとか、持ち船が沈んでしまうとか、働き盛りの兄上が死病に取りつかれるとか、鰊《にしん》の群来《くき》がすっかり[#「すっかり」に傍点]はずれるとか、ワク船が流されるとか、いろいろに想像されるこれらの不幸の一つだけに出くわしても、君の家にとっては、足腰の立たない打撃となるのだ。疲れた五体を家路に運びながら、そしてばかに建物の大きな割合に、それにふさわない暗い灯《ひ》でそこと知られる柾葺《まさぶ》きの君の生まれた家屋を目の前に見やりながら、君の心は運命に対する疑いのために妙におくれがちになる。
 それでも敷居《しきい》をまたぐと土間のすみの竈《かまど》には火が暖かい光を放って水飴《みずあめ》のようにやわらかく撓《しな》いながら燃えている。どこからどこまでまっ黒にすすけながら、だだっ広い囲炉裏の間《ま》はきちん[#「きちん」に傍点]と片付けてあって、居心よさそうにしつらえてある。嫂《あによめ》や妹の心づくしを君はすぐ感じてうれしく思いながら、持って帰った漁具――寒さのために凍り果てて、触れ合えば石のように音を立てる――をそれぞれの所に始末すると、これもからからと音を立てるほど凍り果てた仕事着を一枚一枚脱いで、竈《かまど》のあたりに掛けつらねて、ふだん着に着かえる。一日の寒気に凍え切った肉体はすぐ熱を吹き出して、顔などはのぼせ上がるほどぽかぽかして来る。ふだん着の軽い暖かさ、一|椀《わん》の熱湯の味のよさ。
 小気味のよいほどしたたか夕餉《ゆうげ》を食った漁夫たちが、
 「親方さんお休み」
と挨拶《あいさつ》してぞろぞろ出て行ったあとには、水入らずの家族五人が、囲炉裏の火にまっかに顔を照らし合いながらさし向かいになる。戸外ではさらさらと音を立てて霰《あられ》まじりの雪が降りつづけている。七時というのにもうその界隈《かいわい》は夜ふけ同様だ。どこの家もしん[#「しん」に傍点]として赤子の泣く声が時おり聞こえるばかりだ。ただ遠くの遊郭のほうから、朝寝のできる人たちが寄り集まっているらしい酔狂のさざめきだけがとぎれとぎれに風に送られて伝わって来る。
 「おらはあ寝まるぞ」
 わずかな晩酌《ば
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