《こだま》になって、二重にも三重にも聞こえて来た。
もう自然はもとの自然だった。いつのまにか元どおりな崩壊したようなさびしい表情に満たされて涯《はて》もなく君の周囲に広がっていた。君はそれを感ずると、ひたと底のない寂寥《せきりょう》の念に襲われだした。男らしい君の胸をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と引きしめるようにして、熱い涙がとめどなく流れ始めた。君はただひとり真夜中の暗やみの中にすすり上げながら、まっ白に積んだ雪の上にうずくまってしまった、立ち続ける力さえ失ってしまって。
九
君よ!![#「!!」は横一列、第3水準1−8−75、96−4]
この上君の内部生活を忖度《そんたく》したり揣摩《しま》したりするのは僕のなしうるところではない。それは不可能であるばかりでなく、君を涜《けが》すと同時に僕自身を涜す事だ。君の談話や手紙を総合した僕のこれまでの想像は謬《あやま》っていない事を僕に信ぜしめる。しかし僕はこの上の想像を避けよう。ともかく君はかかる内部の葛藤《かっとう》の激しさに堪えかねて、去年の十月にあのスケッチ帳と真率な手紙とを僕に送ってよこしたのだ。
君よ。しかし僕は君のために何をなす事ができようぞ。君とお会いした時も、君のような人が――全然都会の臭味から免疫されて、過敏な神経や過量な人為的知見にわずらわされず、強健な意力と、強靱《きょうじん》な感情と、自然に哺《はぐく》まれた叡智《えいち》とをもって自然を端的に見る事のできる君のような土の子が――芸術の捧誓者《ほうせいしゃ》となってくれるのをどれほど望んだろう。けれども僕の喉《のど》まで出そうになる言葉をしいておさえて、すべてをなげうって芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。
それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただひとりで忍ばなければならない煩悶《はんもん》――それは痛ましい陣痛の苦しみであるとは言え、それは君自身の苦しみ、君自身で癒《いや》さなければならぬ苦しみだ。
地球の北端――そこでは人の生活が、荒くれた自然の威力に圧倒されて、痩地《やせじ》におとされた雑草の種のように弱々しく頭をもたげてい、人類の活動の中心からは見のがされるほど隔たった地球の北端の一つの地角に、今、一つのすぐれた魂は悩んでいるのだ。もし僕がこの小さな記録を公にしなかったならばだれもこのすぐれた魂の悩みを知るものはないだろう。それを思うとすべての現象は恐ろしい神秘に包まれて見える。いかなる結果をもたらすかもしれない恐ろしい原因は地球のどのすみっこにも隠されているのだ。人はおそれないではいられない。
君が一人の漁夫として一生をすごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じい疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。このせつなる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中にことに激しく強まった。
ほんとうに地球は生きている。生きて呼吸している。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生まれ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみと君によって感ずる事ができる。それはわきいで跳《おど》り上がる強い力の感じをもって僕を涙ぐませる。
君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿《つばき》が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。春が来るのだ。
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。
[#20字下げ、地より2字上げで](一九一八年四月、大阪毎日新聞に一部所載)
底本:「小さき者へ・生まれいずる悩み」岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年3月26日第1刷発行
1962(昭和37)年10月16日第26刷改版発行
1998(平成10)年4月6日第71刷改版発行
底本の親本:「生れ出る悩み」叢文閣
1918(大正7)年9月初版発行
※底本には「本書は初版本を底本として、これを文庫編集部において現代表記に改めたものである。」との付記がある。
入力:土田一柄
校正:丹羽倫子
2000年10月10日公開
青空文庫作成ファイル:
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