ない。芸術の神聖を信じ、芸術が実生活の上に玉座を占むべきものであるのを疑わない君も、その事がらが君自身に関係して来ると、思わず知らず足もとがぐらついて来るのだ。
 「おれが芸術家でありうる自信さえできれば、おれは一刻の躊躇《ちゅうちょ》もなく実生活を踏みにじっても、親しいものを犠牲にしても、歩み出す方向に歩み出すのだが‥‥家の者どもの実生活の真剣さを見ると、おれは自分の天才をそうやすやすと信ずる事ができなくなってしまうんだ。おれのようなものをかいていながら彼らに芸術家顔をする事が恐ろしいばかりでなく、僭越《せんえつ》な事に考えられる。おれはこんな自分が恨めしい、そして恐ろしい。みんなはあれほど心から満足して今日今日を暮らしているのに、おれだけはまるで陰謀でもたくらんでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。どうすればこの苦しさこのさびしさから救われるのだろう」
 平常のこの考えがKと向かい合っても頭から離れないので、君は思わず「親父《おやじ》にも兄貴にもすまない」と言ってしまったのだ。
 「どうして?」と言ったKも、君もそのまま黙ってしまった。Kには、物を言われないでも、君の心はよくわかっていたし、君はまた君で、自分はきれいにあきらめながらどこまでも君を芸術の捧誓者《ほうせいしゃ》たらしめたいと熱望する、Kのさびしい、自己を滅した、温《あたた》かい心の働きをしっくりと感じていたからだ。
 君ら二人の目は悒鬱《ゆううつ》な熱に輝きながら、互いに瞳《ひとみ》を合わすのをはばかるように、やや燃えかすれたストーブの火をながめ入る。
 そうやって黙っているうちに君はたまらないほどさびしくなって来る。自分を憐《あわ》れむともKを憐れむとも知れない哀情がこみ上げて、Kの手を取り上げてなでてみたい衝動を幾度も感じながら、女々《めめ》しさを退けるようにむずかゆい手を腕の所で堅く組む。
 ふとすすけた天井からたれ下がった電球が光を放った。驚いて窓から見るともう往来はまっ暗になっている。冬の日の舂《うすず》き隠れる早さを今さらに君はしみじみと思った。掃除《そうじ》の行き届かない電球はごみと手あかとでことさら暗かった。それが部屋《へや》の中をなお悒鬱《ゆううつ》にして見せる。
 「飯だぞ」
 Kの父の荒々しいかん走った声が店のほうからいかにもつっけんどんに聞こえて来る。ふだんから自分の一人むすこの悪友でもあるかのごとく思いなして、君が行くとかつてきげんのいい顔を見せた事のないその父らしい声だった。Kはちょっと反抗するような顔つきをしたが、陰性なその表情をますます陰性にしただけで、きぱきぱ[#「きぱきぱ」に傍点]と盾《たて》をつく様子もなく、父の心と君の心とをうかがうように声のするほうと君のほうとを等分に見る。
 君は長座をしたのがKの父の気にさわったのだと推すると座を立とうとした。しかしKはそういう心持ちに君をしたのを非常に物足らなく思ったらしく、君にもぜひ夕食をいっしょにしろと勧めてやまなかった。
 「じゃ僕は昼の弁当を食わずにここに持ってるからここで食おうよ。遠慮なく済まして来たまえ」
と君は言わなければならなかった。
 Kは夕食を君に勧めながら、ほんとうはそれを両親に打ち出して言う事を非常に苦にしていたらしく、さればとてまずい心持ちで君をかえすのも堪えられないと思いなやんでいたらしかったので、君の言葉を聞くと活路を見いだしたように少し顔を晴れ晴れさせて調剤室を立って行った。それも思えば一家の貧窮がKの心に染《し》み渡《わた》ったしるし[#「しるし」に傍点]だった。君はひとりになると、だんだん暗い心になりまさるばかりだった。
 それでも夕飯という声を聞き、戸のすきから漏れる焼きざかなのにおいをかぐと、君は急に空腹を感じだした。そして腰に結び下げた弁当包みを解いてストーブに寄り添いながら、椅子《いす》に腰かけたままのひざの上でそれを開いた。
 北海道には竹がないので、竹の皮の代わりにへぎ[#「へぎ」に傍点]で包んだ大きな握り飯はすっかり[#「すっかり」に傍点]凍《い》ててしまっている。春立《はるだ》った時節とは言いながら一日寒空に、切り株の上にさらされていたので、飯粒は一粒一粒ぼろぼろに固くなって、持った手の中からこぼれ落ちる。試みに口に持って行ってみると米の持つうまみはすっかり奪われていて、無味な繊維のかたまり[#「かたまり」に傍点]のような触覚だけが冷たく舌に伝わって来る。
 君の目からは突然、君自身にも思いもかけなかった熱い涙がほろほろとあふれ出た。じっ[#「じっ」に傍点]とすわったままではいられないような寂寥《せきりょう》の念がまっ暗に胸中に広がった。
 君はそっと座を立った。そして弁当を元どおりに包んで腰にさげ、スケッチ帳をふところにねじこむと、こそこそと入り口に行って長靴《ながぐつ》をはいた。靴の皮は夕方の寒さに凍《こお》って、鉄板のように堅く冷たかった。
 雪は燐《りん》のようなかすかな光を放って、まっ黒に暮れ果てた家々の屋根をおおうていた。さびしいこの横町は人の影も見せなかった。しばらく歩いて例のデパートメント・ストアの出店の角《かど》近くに来ると、一人の男の子がスケート下駄《げた》(下駄の底にスケートの歯をすげたもの)をはいて、でこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]に凍った道の上をがりがり[#「がりがり」に傍点]と音をさせながら走って来た。その子はスケートに夢中になって、君のそばをすりぬけても君には気がついていないらしい。
 「氷の上がすべれだした時はほんとに夢中になるものだ」
 君は自分の遠い過去をのぞき込むようにさびしい心の中にもこう思う。何事を見るにつけても君の心は痛んだ。
 デパートメント・ストアのある本通りに出ると打って変わってにぎやかだった。電灯も急に明るくなったように両側の家を照らして、そこには店の者と購買者との影が綾《あや》を織った。それは君にとっては、その場合の君にとっては、一つ一つ見知らぬものばかりのようだった。そこいらから起こる人声や荷橇《にぞり》の雑音などがぴんぴん[#「ぴんぴん」に傍点]と君の頭を針のように刺激する。見物の前に引き出された見世物小屋の野獣のようないらだたしさを感じて、君は眉根《まゆね》の所に電光のように起こる痙攣《けいれん》を小うるさく思いながら、むずかしい顔をしてさっさ[#「さっさ」に傍点]とにぎやかな往来を突きぬけて漁師町《りょうしまち》のほうへ急ぐ。
 しかし君の家が見えだすと君の足はひとりで[#「ひとりで」に傍点]にゆるみがちになって、君の頭は知らず知らず、なお低くうなだれてしまった。そして君は疑わしそうな目を時々上げて、見知り越しの顔にでもあいはしないかと気づかった。しかしこの界隈《かいわい》はもう静まり返っていた。
 「だめだ」
 突然君はこう小さく言って往来のまん中に立ちどまってしまった。そうして立ちすくんだその姿の首から肩、肩から背中に流れる線は、もしそこに見守る人がいたならば、思わずぞっ[#「ぞっ」に傍点]として異常な憂愁と力とを感ずるに違いない不思議に強い表現を持っていた。
 しばらく釘《くぎ》づけにされたように立ちすくんでいた君は、やがて自分自身をもぎ取るように決然と肩をそびやかして歩きだす。
 君は自分でもどこをどう歩いたかしらない。やがて君が自分に気がついて君自身を見いだした所は海産物製造会社の裏の険しい崕《がけ》を登りつめた小山の上の平地だった。
 全く夜になってしまっていた。冬は老いて春は来ない――その壊《こわ》れ果てたような荒涼たる地の上高く、寒さをかすかな光にしたような雲のない空が、息もつかずに、凝然として延び広がっていた。いろいろな光度といろいろな光彩でちりばめられた無数の星々の間に、冬の空の誇りなる参宿《オライオン》が、微妙な傾斜をもって三つならんで、何かの凶徴のようにひときわぎらぎら[#「ぎらぎら」に傍点]と光っていた。星は語らない。ただはるかな山すそから、干潮になった無月の潮騒《しおざい》が、海妖《かいよう》の単調な誘惑の歌のように、なまめかしくなでるように聞こえて来るばかりだ。風が落ちたので、凍りついたように寒く沈み切った空気は、この海のささやきのために鈍く震えている。
 君はその平地の上に立ってぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]あたりを見回していた。君の心の中にはさきほどから恐ろしい企図《たくらみ》が目ざめていたのだ。それはきょうに始まった事ではない。ともすれば君の油断を見すまして、泥沼《どろぬま》の中からぬるり[#「ぬるり」に傍点]と頭を出す水の精のように、その企図は心の底から現われ出るのだ。君はそれを極端に恐れもし、憎みもし、卑しみもした。男と生まれながら、そんな誘惑を感ずる事さえやくざ[#「やくざ」に傍点]な事だと思った。しかしいったんその企図が頭をもたげたが最後、君は魅入られた者のように、もがき苦しみながらも、じりじり[#「じりじり」に傍点]とそれを成就するためには、すべてを犠牲にしても悔いないような心になって行くのだ、その恐ろしい企図《たくらみ》とは自殺する事なのだ。
 君の心は妙にしん[#「しん」に傍点]と底冷えがしたようにとげとげしく澄み切って、君の目に映る外界の姿は突然全く表情を失ってしまって、固い、冷たい、無慈悲な物の積み重なりに過ぎなかった。無際限なただ一つの荒廃――その中に君だけが呼吸を続けている、それがたまらぬほどさびしく恐ろしい事に思いなされる荒廃が君の上下四方に広がっている。波の音も星のまたたきも、夢の中の出来事のように、君の知覚の遠い遠い末梢《まっしょう》に、感ぜられるともなく感ぜられるばかりだった。すべての現象がてんでんばらばらに互いの連絡なく散らばってしまった。その中で君の心だけが張りつめて死のほうへとじりじり深まって行こうとした。重錘《おもり》をかけて深い井戸に投げ込まれた灯明のように、深みに行くほど、君の心は光を増しながら、感じを強めながら、最後には死というその冷たい水の表面に消えてしまおうとしているのだ。
 君の頭がしびれて行くのか、世界がしびれて行くのか、ほんとうにわからなかった。恐ろしい境界に臨んでいるのだと幾度も自分を警《いまし》めながら、君は平気な気持ちでとてつ[#「とてつ」に傍点]もないのんきな事を考えたりしていた。そして君は夜のふけて行くのも、寒さの募るのも忘れてしまって、そろそろと山鼻のほうへ歩いて行った。
 足の下遠く黒い岩浜が見えて波の遠音が響いて来る。
 ただ一飛びだ。それで煩悶《はんもん》も疑惑もきれいさっぱり帳消しになるのだ。
 「家《うち》の者たちはほんとうに気が違ってしまったとでも思うだろう。‥‥頭が先にくだけるかしらん。足が先に折れるかしらん」
 君はまたたきもせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]崖《がけ》の下をのぞきこみながら、他人の事でも考えるように、そう心の中でつぶやく。
 不思議なしびれはどんどん深まって行く。波の音なども少しずつかすか[#「かすか」に傍点]になって、耳にはいったりはいらなかったりする。君の心はただいちずに、眠り足りない人が思わず瞼《まぶた》をふさぐように、崖《がけ》の底を目がけてまろび落ちようとする。あぶない‥‥あぶない‥‥他人の事のように思いながら、君の心は君の肉体を崖《がけ》のきわからまっさかさまに突き落とそうとする。
 突然君ははね返されたように正気に帰って後ろに飛びすざった。耳をつんざくような鋭い音響が君の神経をわななかしたからだ。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]と驚いて今さらのように大きく目を見張った君の前には平地から突然下方に折れ曲がった崖の縁《へり》が、地球の傷口のように底深い口をあけている。そこに知らず知らず近づいて行きつつあった自分を省みて、君は本能的に身の毛をよだてながら正気になった。
 鋭い音響は目の下の海産物製造会社の汽笛だった。十二時の交代時間になっていたのだ。遠い山のほうからその汽笛の音はかすかに反響
前へ 次へ
全12ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング