どことも知れず、あの昼にはけうとい羽色を持った烏《からす》の声が勇ましく聞こえだす。漁夫たちの群れもお内儀《かみ》さんたちのかたまりも、石のような不動の沈黙から急に生き返って来る。
 「出すべ」
 そのさざめきの間に、潮で※[#「※」は「金へん+肅」、第3水準1−93−39、46−9]《さ》び切った老船頭の幅の広い塩辛声《しおからごえ》が高くこう響く。
 漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れてめいめいの持ち場につく。お内儀さんたちは右に左に夫《おっと》や兄や情人やを介抱して駆け歩く。今まで陶酔したようにたわいもなく波に揺られていた船の艫《とも》には漁夫たちが膝頭《ひざがしら》まで水に浸って、わめき始める。ののしり騒ぐ声がひとしきり聞こえたと思うと、船はよんどころなさそうに、右に左に揺らぎながら、船首を高くもたげて波頭を切り開き切り開き、狂いあばれる波打ちぎわから離れて行く。最後の高いののしりの声とともに、今までの鈍さに似ず、あらゆる漁夫は、猿《ましら》のように船の上に飛び乗っている。ややともすると、舳《へさき》を岸に向けようとする船の中からは、長い竿《さお》が水の中に幾本も突き込まれる。船はやむを得ずまた立ち直って沖を目ざす。
 この出船の時の人々の気組み働きは、だれにでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろう。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の擾乱《じょうらん》の中から、漁夫たちの鈍いLargo pianissimoとも言うべき運動が起こって、それが始めのうちは周囲の騒音の中に消されているけれども、だんだんとその運動は熱情的となり力づいて行って、霊を得たように、漁夫の乗り込んだ舟が波を切り波を切り、だんだんと早くなる一定のテンポを取って沖に乗り出して行くさまは、力強い楽手の手で思い存分大胆にかなでられるAllegro Moltoを思い出させずにはおかぬだろう。すべてのものの緊張したそこには、いつでも音楽が生まれるものと見える。
 船はもう一個の敏活な生き物だ。船べりからは百足虫《むかで》のように艪《ろ》の足を出し、艫《とも》からは鯨のように舵《かじ》の尾を出して、あの物悲しい北国特有な漁夫のかけ声に励まされながら、まっ暗に襲いかかる波のしぶき[#「しぶき」に傍点]をしのぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く。海岸にひとかたまりになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪をこぎながら、帆綱を整えながら、浸水《あか》をくみ出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて怪火《かいか》のように流れる炭火の火の子とをながめやる。長い鉄の火箸《ひばし》に火の起こった炭をはさんで高くあげると、それが風を食って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つあげられた時には、天候の悪くなる印《しるし》と見て船を停《と》め、二つあげられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。暁闇《ぎょうあん》を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い炎を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だ。その光が運命の物すごさをもって海上に長く尾を引きながら消えて行く。
 どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る。猫《ねこ》のような声で小さく呼びかわすこの海の砂漠《さばく》の漂浪者は、さっと落として来て波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思い直したように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ。夜の闇《やみ》は暗く濃く沖のほうに追いつめられて、東の空には黎明《れいめい》の新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだ。あやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷電峠の絶巓《ぜってん》をなでたりたたいたりして叢立《むらだ》ち急ぐ嵐雲《あらしぐも》は、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な藤色《ふじいろ》に染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ。長い夜のために冷え切った地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。
 私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は配縄《はいなわ》の用意をしながら、恐ろしいまでに荘厳《そうごん》なこの日の序幕をながめているのだ。君の
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