、重々しい口調で別れの挨拶《あいさつ》をすますと、ガラス戸を引きあけて戸外に出た。
 私はガラス窓をこずいて外面に降り積んだ雪を落としながら、吹きたまったまっ白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は――やはり頭巾をかぶらないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた――君の黒い姿は、白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、縞《しま》になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとうかすんで見えなくなってしまった。
 そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調なさびしさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。
 私がそこを発《た》って東京に帰ったのは、それから三四日後の事だった。

       四

 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿《つばき》が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。君の住む岩内の港の水は、まだ流れこむ雪解《ゆきげ》の水に薄濁るほどにもなってはいまい。鋼鉄を水で溶かしたような海面が、ややもすると角立《かどだ》った波をあげて、岸を目がけて終日攻めよせているだろう。それにしてももう老いさらぼえた雪道を器用に拾いながら、金魚売りが天秤棒《てんびんぼう》をになって、無理にも春をよび覚《さ》ますような売り声を立てる季節にはなったろう。浜には津軽《つがる》や秋田《あきた》へんから集まって来た旅雁《りょがん》のような漁夫たちが、鰊《にしん》の建網《たてあみ》の修繕をしたり、大釜《おおがま》の据《す》え付《つ》けをしたりして、黒ずんだ自然の中に、毛布の甲がけや外套《がいとう》のけばけばしい赤色をまき散らす季節にはなったろう。このころ私はまた妙に君を思い出す。君の張り切った生活のありさまを頭に描く。君はまざまざと私の想像の視野に現われ出て来て、見るように君の生活とその周囲とを私に見せてくれる。芸術家にとっては夢と現《うつつ》との閾《しきい》はないと言っていい。彼は現実を見ながら眠っている事がある。夢を見ながら目を見開いている事がある。私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみる事を君は拒むだろうか。私の鈍い頭にも同感というものの力がどのくらい働きうるかを私は自分でためしてみたいのだ。君の寛大はそれを許してくれる事と私はきめてかかろう。
 君を思い出すにつけて、私の頭にすぐ浮かび出て来るのは、なんと言ってもさびしく物すさまじい北海道の冬の光景だ。

       五

 長い冬の夜はまだ明けない。雷電峠と反対の湾の一角から長く突き出た造りぞこねの防波堤は大蛇《だいじゃ》の亡骸《むくろ》のようなまっ黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える波濤《はとう》の牙《きば》が、小休《おや》みもなくその胴腹に噛《く》いかかっている。砂浜に繁《もや》われた百|艘《そう》近い大和船は、舳《へさき》を沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。そのそばに、さまざまの漁具と弁当のお櫃《ひつ》とを持って集まって来た漁夫たちは、言葉少なに物を言いかわしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号灯を見やっている。暗い闇《やみ》の中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにぎらり[#「ぎらり」に傍点]と光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。船を出すには一番鳥《いちばんどり》が鳴きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町のほうは寝しずまって灯《ひ》一つ見えない。それらのすべてをおおいくるめて凍った雲は幕のように空低くかかっている。音を立てないばかりに雲は山のほうから沖のほうへと絶え間なく走り続ける。汀《みぎわ》まで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波がざぶんざぶん[#「ざぶんざぶん」に傍点]砕けて、風が――空気そのものをかっさらってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目をめがけて突きぬけて行く。
 漁夫たちの群れから少し離れて、一団になったお内儀《かみ》さんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こる。しばらくしてそれがしずまると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。
 やや二時間もたったと思うころ、あや目も知れない闇《やみ》の中から、硫黄《いおう》が丘《たけ》の山頂――右肩をそびやかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼子のように、空中に現われ出る。鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空はいち早くも暁の光を吸い初めたのだ。
 模範船(港内に四五|艘《そう》あるのだが、船も大きいし、それに老練な漁夫が乗り込んでいて、他の船にかけ引き進退の合図をする)の船頭が頭をあつめて相談をし始める。
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