遠い末梢《まっしょう》に、感ぜられるともなく感ぜられるばかりだった。すべての現象がてんでんばらばらに互いの連絡なく散らばってしまった。その中で君の心だけが張りつめて死のほうへとじりじり深まって行こうとした。重錘《おもり》をかけて深い井戸に投げ込まれた灯明のように、深みに行くほど、君の心は光を増しながら、感じを強めながら、最後には死というその冷たい水の表面に消えてしまおうとしているのだ。
 君の頭がしびれて行くのか、世界がしびれて行くのか、ほんとうにわからなかった。恐ろしい境界に臨んでいるのだと幾度も自分を警《いまし》めながら、君は平気な気持ちでとてつ[#「とてつ」に傍点]もないのんきな事を考えたりしていた。そして君は夜のふけて行くのも、寒さの募るのも忘れてしまって、そろそろと山鼻のほうへ歩いて行った。
 足の下遠く黒い岩浜が見えて波の遠音が響いて来る。
 ただ一飛びだ。それで煩悶《はんもん》も疑惑もきれいさっぱり帳消しになるのだ。
 「家《うち》の者たちはほんとうに気が違ってしまったとでも思うだろう。‥‥頭が先にくだけるかしらん。足が先に折れるかしらん」
 君はまたたきもせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]崖《がけ》の下をのぞきこみながら、他人の事でも考えるように、そう心の中でつぶやく。
 不思議なしびれはどんどん深まって行く。波の音なども少しずつかすか[#「かすか」に傍点]になって、耳にはいったりはいらなかったりする。君の心はただいちずに、眠り足りない人が思わず瞼《まぶた》をふさぐように、崖《がけ》の底を目がけてまろび落ちようとする。あぶない‥‥あぶない‥‥他人の事のように思いながら、君の心は君の肉体を崖《がけ》のきわからまっさかさまに突き落とそうとする。
 突然君ははね返されたように正気に帰って後ろに飛びすざった。耳をつんざくような鋭い音響が君の神経をわななかしたからだ。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]と驚いて今さらのように大きく目を見張った君の前には平地から突然下方に折れ曲がった崖の縁《へり》が、地球の傷口のように底深い口をあけている。そこに知らず知らず近づいて行きつつあった自分を省みて、君は本能的に身の毛をよだてながら正気になった。
 鋭い音響は目の下の海産物製造会社の汽笛だった。十二時の交代時間になっていたのだ。遠い山のほうからその汽笛の音はかすかに反響《こだま》になって、二重にも三重にも聞こえて来た。
 もう自然はもとの自然だった。いつのまにか元どおりな崩壊したようなさびしい表情に満たされて涯《はて》もなく君の周囲に広がっていた。君はそれを感ずると、ひたと底のない寂寥《せきりょう》の念に襲われだした。男らしい君の胸をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と引きしめるようにして、熱い涙がとめどなく流れ始めた。君はただひとり真夜中の暗やみの中にすすり上げながら、まっ白に積んだ雪の上にうずくまってしまった、立ち続ける力さえ失ってしまって。

       九

 君よ!![#「!!」は横一列、第3水準1−8−75、96−4]
 この上君の内部生活を忖度《そんたく》したり揣摩《しま》したりするのは僕のなしうるところではない。それは不可能であるばかりでなく、君を涜《けが》すと同時に僕自身を涜す事だ。君の談話や手紙を総合した僕のこれまでの想像は謬《あやま》っていない事を僕に信ぜしめる。しかし僕はこの上の想像を避けよう。ともかく君はかかる内部の葛藤《かっとう》の激しさに堪えかねて、去年の十月にあのスケッチ帳と真率な手紙とを僕に送ってよこしたのだ。
 君よ。しかし僕は君のために何をなす事ができようぞ。君とお会いした時も、君のような人が――全然都会の臭味から免疫されて、過敏な神経や過量な人為的知見にわずらわされず、強健な意力と、強靱《きょうじん》な感情と、自然に哺《はぐく》まれた叡智《えいち》とをもって自然を端的に見る事のできる君のような土の子が――芸術の捧誓者《ほうせいしゃ》となってくれるのをどれほど望んだろう。けれども僕の喉《のど》まで出そうになる言葉をしいておさえて、すべてをなげうって芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。
 それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただひとりで忍ばなければならない煩悶《はんもん》――それは痛ましい陣痛の苦しみであるとは言え、それは君自身の苦しみ、君自身で癒《いや》さなければならぬ苦しみだ。
 地球の北端――そこでは人の生活が、荒くれた自然の威力に圧倒されて、痩地《やせじ》におとされた雑草の種のように弱々しく頭をもたげてい、人類の活動の中心からは見のがされるほど隔たった地球の北端の一つの地角に、今、一つのすぐれた魂は悩んでいるのだ。もし僕がこの小さな記録を公にしなかったならばだれもこのすぐれ
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